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「あじまりかん」は合気道と同じ

神国日本(横山大観)

本当の話:「あじまりかん」は合気道と同じ/斎藤 敏一

作成:2018年3月13日、最終更新日:2018年5月5日


◎山蔭基央師と佐藤定吉博士のライフワークを継承する

 私は2014年頃、佐藤定吉博士の『日本とはどんな国』を丁寧に読み直すという機会を持ちました。そこには、「あじまりかん」の秘密の一端が書かれていたのです。
 それから二年余りの間「あじまりかん」を唱え続けました。その間、「あじまりかん」の言霊が常に私を導いてくれました。「あじまりかん」よりインスピレーションを与えられ、遂に二冊のあじまりかんの本が完成したのです。「あじまりかん」そのものが私に本を書かせたとしか言いようのない出来事が起こったのです。
 佐藤博士の『日本とはどんな国』の以下の一節が私に「あじまりかんは神の言霊である」という確信を与えました。

「その(「あじまりかん」を唱えている時の)全体から来る霊的波長は、
 
どうしても『神と人』とが一如になり、『神』が人の中から顕現する時の
 霊の響きのように受け取られる」

 佐藤博士はこの「神」の正体について一言も語りません。だがそれは、佐藤博士が山蔭神道の説く大元霊=造化三神のことを知らずして、昭和三十年代に亡くなられたためです。
 当時はまだ、山蔭基央師の著作群が存在していませんでした。だから、古神道的な神の認識方法が手近な情報として得られなかったのです。
 斎藤は、処女作『アジマリカンの降臨』の執筆を通じて、この『神』が大元霊であることを感得できました
 「あじまりかん」の言霊の本義=実体は大元霊なのです。すなわち、「あじまりかん」という言葉には本体霊が存在しており、その本体霊とは大元霊=造化三神=宇宙創造神=最高神=人類共通の神なのです。

 まさに「あじまりかん」は大元霊のコトタマなので、唱えると大元霊が(波動として)降臨するのです。山蔭神道が二千年の間伝承してきた「あじまりかん」は大元霊の言霊であったということなのです。
 「あじまりかん」は大元霊の言霊(言語的顕現)です。だからこそ、「あじまりかん」を唱えれば、全人類が宗教や信仰に関わらず無条件に救われるのです。今こそ「あじまりかん」の大いなる力を汲み出す時です。
 故山蔭師が預言された「新しい神話」(記事「あじまりかんは貴方を自由にする」を参照)とは、師の足下に初めから回答として存在していたのです。その回答とは大神呪「あじまりかん」です。佐藤博士によれば、山蔭神道は天皇神道とも呼ばれ、天皇行法の中核である「あじまりかん行法」の伝承主体でした。
 「あじまりかんと大元霊の関係」は「ものすごい真実」であるが、不思議なことに誰もがそのことに気付かなかったのです。
 故山蔭基央師の預言であった「新しい神話」の意味を発見したのは、山蔭神道とは無関係の、当時はソフトウェア・エンジニアであった筆者だったということになります。
 私はそのことに気付いた時、故山蔭師の遺影を思い浮かべて、「山蔭先生。ついに『あじまりかん』で大元霊が降臨しましたよ」と報告しました。
 故山蔭師には、筆者が三十代の時に一度だけお目にかかっているという間柄でしかないのですが、師の預言成就は筆者に委ねられたのです。
 もっとも、これは私が勝手に思っているだけで、山蔭神道より公認されている訳ではありません。また、公認されるべき必然性や必要性もないと考えています。すべては私が自分の責任で、正しいと信ずることを実行すればよいからです。
 大本預言・日月神示の「一輪の秘密/一輪の仕組」の正解は、誰も想像しなかった山蔭神道の大神呪「あじまりかん」に隠されていたのです。

◎「あじまりかん」の科学=神の実在を前提とする科学

 私には、この種の事柄(「あじまりかん」の秘密)を解明するための基本的条件が備わっています。
 この条件とは、「自分の心身を使って神さまなどの霊的事象を科学する」という生き方を意味しています。
 私は身を持って体験したことしか信じない質(たち)です。

 私が「身を持って体験したこと」とは、「身をもって神の存在を体験したこと」という意味です。この一節の意味を正しく理解していただくには、もう少し説明が必要になります。
 「自分の身体を使って」という以上、「そもそも神という目に見えない存在を体験したり認識したりすることが可能なのか」という疑問を抱く方が出てきても不思議ではありません。
 筆者は自分の身体で、神や霊などの目に見えない存在を波動的に検知できます。自分は昔からそういう体質なので、誰でも私と同じように感じることができると思っていたのですが、妻に自分が感じているものを確かめると「感じない」と言われることが多いです。
 だが、よくよく尋ねてみると「何となくこういう感じ」というものはあるようです。そういう場合、私が感じているものと基本的には一致しています。誰でもある程度は目に見えないものを感じることができるようです。
 ただ、私の場合、その感覚をいつも普通に使っているので、妻よりはハッキリ感じるという事情があるようです。多くの人は私の妻と同じように「神や霊を感じない」と思い込んでいるだけで、実際には感じているというのが正しそうです。気配や雰囲気と言えば、誰でも感じます。「気配や雰囲気を感じる能力だったら誰でも持っている」ということは正しいでしょう。この能力は実は霊的な能力なのです。
 次に、無用な誤解を避けるため、本書で筆者が使用する「科学」という言葉の定義を明確にしておきましょう。
 本記事における「科学」とは、「神の実在を大前提とする科学」です。「神」とは「目に見えないけど実在する貴い霊的存在」という意味です。すべては「神の実在」という一点からスタートします。
 だから、「目に見えない存在は信じない」という方には本記事の内容は不適合となってしまいます。現在の物質科学だけを信じる方には、本記事の論旨は苦痛かも知れません(そういう方は本記事を読むこともないから気にすることはないのですが……)。

 だが、現在の物質科学では測定できない目に見えない貴い存在があると考える方には、本記事の内容はすんなり受け入れることができると信じます。
 そもそも、私がどうして「科学」という言葉を使うかと言えば、「神さまの世界に接触するための経験的な知識の集積」が厳然として存在するからです。
 「あじまりかん」とは、古代より日本人が唱え続けてきた貴重な体験の集積でもあります。体験の集積とは、再現性の証拠です。「あじまりかんを唱えれば、不思議な力が働いて守られ幸せになる」という体験が積み重ねられてきたのです。神の存在が目に見えずとも、「あじまりかんは効く」のです。また、「あじまりかん」を唱えれば、誰でも神の存在を感じるのです。

◎「あじまりかん」は合気道と同じだ

 「あじまりかんの科学」とは、「あじまりかん実修者」が各々の肉体を使って体験を積み重ねてゆくという、掛け値なしの方法論です。

植芝盛平翁の演武(投げられた人は「自分がどうして飛ばされたのか分からない」と言う)

 合気道などの武道では、日々の修練が欠かせないものですが、「あじまりかん」の場合は、日々「あじまりかん」を唱えて自己点検することが武道の修練に相当します。合気道のように身体を動かす必要はありませんが、心と声を使って身体に「あじまりかん」を鳴り響かせなければなりません。この方法は武道には見えませんが、知らず知らずのうちに心身を使っているので、立派な武道なのです。
 この方法に従えば、合気道開祖の植芝盛平翁のような達人になってしまうのです。
 どうしてそうなるのか? それは次のような理由からです。
 「あじまりかん」を唱えれば唱えるほど、大神さまより御霊(みたま)をいただくことができます。これを「御霊のふゆ」と呼びます。元の意味は「神さまからお蔭をいただく」ですが、実際に御霊が増えるのです。だから、実修者は絶え間なく霊的な成長を積み重ねていくことができます。
 そして、いつの間にか、想像もできないほどの魂力(たまぢから)・霊力をいただいてしまうのです。「あじまりかん実修者」は知らず知らずのうちに、魂的に霊的に大きく育ってゆくのです。日々「あじまりかん」を唱え続けるという積み重ね、鍛錬の効果は武道の修練と全く変わらないのです。
 掛け値なしの体験の集積こそが科学なのです。それも「あじまりかん実修者」が自分の肉体を使って体験を積み重ねるという、武道と全く同一の仕組を使う科学なのです。それしか実効性のある方法は存在しないのです。
 そして、「あじまりかん実修者」は最終的に、大神さまと一体の神人になってしまうのです。これは合気道開祖の植芝盛平翁と同じ境地なのです。もちろんこれは、我々「あじまりかん修行者」が完全に翁のような武道の神さまと等しくなるという意味ではありません。ですが、翁と同じ世界に到達可能なのです。しかも、合気道とは違って、身体を痛めることもなく楽に達人の境地に入ってゆくことができます。
そのようにいいことづくめなのが「あじまりかん」なのです。

◎植芝盛平翁の「信仰の力が必要」の意味とは

 植芝盛平翁は生前、「信仰の力がないと天の浮橋に立つことができない」と説かれました。この「信仰の力」とは、霊の修行によって得られる霊的な力を意味しています。翁は修業時代に、大本の出口王仁三郎師に師事したり、古神道や言霊に関連した学びを重ねることによって、自身の霊肉併せた武道の完成を目指しておられました。
 肉体の方の修行に関しては合気道の型などを通じて体得可能です。しかし、霊の修行に関しては「信仰の力が必要」としか語らず、具体的にどうすれば霊の力を身に付けることができるのかについては語りませんでした。
 これでは、合気道の修行者が達人の境地を目指そうとしても、修行者が各自、自分で工夫するしかないわけです。肉体の修行だけでは合気道という武道は完全なものとはならないのですから、植芝盛平翁のような方が合気道の世界に数多登場することは困難だということになります。
 翁が言われている「天の浮橋に立つ境地」とは、霊肉共に修行ができて神人一如になった状態を意味します。そうなるには、霊の修行が欠かせないわけです。一体何をすれば、武道の修行者が霊の力を身に付けることができるのでしょうか?
 ここで、合気道等の武道の世界に身を置かれた方たちのために一言だけアドバイスします。

「『あじまりかん』を唱えれば霊の修行ができるので、植芝先生のような境地に到達できます」

 まあ、だまされたと思って「あじまりかん」を唱えてみて下さい。あなたの武道が内側から大きく変わってゆくことは間違いありません。そして、とことん「あじまりかん」を唱え切って下さい。あなたはいつの間にか「天の浮橋に立っている自分」を見出すことでしょう。神人一如の武道家が誕生するのです。

【参考資料】
一輪の秘密は既に戦前に解かれていた!?
あじまりかんは貴方を自由にする
あじまりかんは科学だ!
・『植芝盛平先生口述 武産合気』白光真宏会青年合気道同好会、1976年
・『アジマリカンの降臨

「一厘の仕組」は既に戦前に解かれていた!?

本当の話:「一厘の仕組」は既に戦前に解かれていた!?/斎藤 敏一

作成:2018年1月16日、最終更新日:2018年5月5日


◎正月早々ビックリしたこと(その2)

 「2018年は何か大きなことが起きる年になりそうです」と、先日の記事「これが大元霊のお姿だ!」で書きました。
 実はつい先日のことですが、もう一つビックリするような出来事がありました。仕事部屋の片付けを兼ねて屋根裏部屋でめぼしい本探しをしていた時のことです。『植芝盛平先生口述 武産合気(たけむすあいき)』という学生時代に購入した本を読み返す機会があったからです。その本は、昭和五十一年に白光真宏会青年合気道同好会から出版されたものですが、合気道開祖・植芝盛平翁の講話を口述筆記したもので、その内容の素晴らしさにビックリしたということなのです。翁は、こんなことを合気道同好会の青年たちに語っています。

 釈迦やキリストや孔子にまかせてはおけない。もう予言の時代は過ぎた。今はそれを実行に移すだけです。各々が天之御中主神(空即実相)にならねばならない。私達は一柱の神ではなく、八百万の神にみんな守護されているのです。これからは各々の天命を全うするように進んでゆくのです。皆さんお願いしますよ。

 ビックリしたのは、「大元霊=宇宙の大神さま」のお姿に関して話されている以下の一節です。

 一霊四魂三元八力の大元霊が、一つなる大神のみ姿である。大神は一つであり宇宙に満ちて生ける無限大の弥栄の姿である。即ち天なく地なく宇宙もなく大虚空宇宙である。その大虚空に、ある時ポチ忽然として現る。このポチこそ宇宙万有の根源なのである。そこで始め湯気、煙、霧よりも微細なる神明の気を放射して円形の圏を描き、ポチを包みて、初めて◎(ス、中央は実際には黒丸。以下同様)の言霊が生まれた。
 これが宇宙の最初、霊界の初めであります。
 そこで宇大は、自然と呼吸を始めた。神典には、数百億年の昔とあります。そして常在(すみきり)すみきらいつつ即ち一杯に呼吸しつつ生長してゆく。ゆくに従って声が出たのである。言霊が始まったのである。キリストが「はじめに言葉ありき」といったその言霊が◎(ス)であります。これが言霊の始まりである。

 記事「これが大元霊のお姿だ!」の前山さんからの報告にある「まるにチョン、台風の目のような、渦のような物が見えます」の「まるにチョン」のところに相当する「宇宙創生」のお話だということになります。
 植芝盛平翁の次ような一節はいかがでしょうか?

 合気道とは、宇宙の万世一系の理であります。
 合気道とは天授の真理にして、武産(たけむす)の合気の妙用であります。
 合気道とは、天地人、和合の道、とこうなるのであります。
 また合気道とは、万有の処理の道であります。
 合気道とは、言霊の妙用であり、宇宙みそぎの大道であります。
 この道を思惟する人は、宇宙建国完成の経綸に奉仕しなければならないことになっております。

 上記の文中の「合気道」を「あじまりかんの道」に置き換えて読んでみました。するとどうでしょう。私が拙著「あじまりかん」シリーズで伝えたいと思っていることになってしまうことに気付いたのです。「ああ、私と植芝盛平翁は同じなんだ・・・」という感覚です。

◎斎藤と植芝盛平翁の違い

 斎藤が『アジマリカンの降臨』で書いたことと植芝盛平翁が語っている内容は同じ世界から来ているということが分かったのです。つまり、植芝先生は「あじまりかん」すなわち、大元霊そのものの立場で語っておられるのです。それは当然でしょう。植芝盛平翁は、白光真宏会の五井師をして「植芝先生は神の化身だよ」と絶賛せしめた方なのですから。植芝先生の教えも最高でないはずがありません。
 「暗に斎藤の言っていることが最高だと言っているみたいだ」という声が聞こえてきそうです。はい、斎藤が語ることは最高だという気持ちがあることは否定しません。なぜなら、私は「あじまりかん」で大元霊が降臨するという話を語っているのですから、理論的には最高だと思っています。
 ですが、大きな違いがあります。武産合気という言葉からも分かるように、植芝盛平翁の道は、武の道です。一方、斎藤が説いている「あじまりかんの道」は普通人の実践可能な道です。それに、極めて簡単です。
 さらにもう一つの違いがあります。植芝盛平翁と同等の方は合気道からは出ていないのではないかということです。つまり、植芝先生と同レベルの神格を生きている間に体現された方は武道界にはいないのではないかと思うのです(もしおられたらごめんなさい)。植芝先生の『武産合気』の本を読んで「スッキリ分かった」と明言できる方は非常に少ないのではないでしょうか。神の化身が口述されたお話は極めて高度な悟りの世界なです。おまけに、その内容を頭で分かったとしても武道の世界のことですから、行が伴わなければ分かったことにはならない訳です。だから、理屈が分かってもおいそれとは植芝盛平翁の境地には到達できないということになります。こういう方は不世出、つまり、後にも先にも翁ただ一人でしょう。合気道で千人、万人の植芝盛平が輩出するということはあり得ない訳です。
 これはあくまでも斎藤の見解ですが、「あじまりかんの道」の場合は、誰でも斎藤と同程度(神人一如の自覚に達すること。斎藤はまだ発展途上なので、悟りのレベルは最高ではないです。残念ですが・・・)にはなれると考えています。その理由は、「あじまりかんを唱えると無条件に大元霊が(波動として)降臨する」からです。すぐに立派な境地になれる訳ではないですが、無心に「あじまりかん」を唱え続けることによって、徐々に「神人一如」の自覚ができてきます。だんだんと普通の人から神さまに近い人へと成長し続けることができるのです。
 「あじまりかんの道」は、古神道の言葉をあまり使っていない(使う場合は必ず解説しています)ので理論が一般向けで分かり易いはずです。そのため、我々のような普通人でも実践し易いと思います。「あじまりかん」を唱えると神の直接体験が可能です。ですから、誰でもその気になれば神と一つになれるのです。その点が「あじまりかんの道」が易行道だという最大の理由です。
 いずれにせよ、翁も斎藤も「最終的に天の浮橋(後述)に立つ神人とならなければ、神の経綸の大業は果たせない」という考えです。この「天の浮橋に立つ」心境になるには、それなりの修行が必要です。私自身、そこまで行っているかどうか心許ないのですが、少しでもそこに近づきたいと日々努力しています。

◎「天の浮橋に立つ」ということ

天の浮橋に立つイザナギ・イザナミの二神

 植芝翁の教えで特に印象に残る言があります。それは「天の浮橋に立って」という言葉です。図のナギ・ナミ二神は天の浮橋に立たれており、これから国産みをなさろうとしている場面です。
 重要なのは、天の浮橋に立つとは「御親=大元霊=大神様に帰一した状態」であるということです。キリスト教的な言い方をすれば「自分の十字架を背負ってイエスに着いてゆく」ということです。私はキリスト教の十字架という言葉が好きではないので、「身を捨てて天地の十文字の交点に立つ」というような表現を使います。とにかく、最後はそこに行き着くのです。そこからでなければ、天地の経綸は進めてゆけないのです。
 翁は常々「天の浮橋に立って事を為すべし」と説かれています。このように、古事記等の神典に登場する言葉を使って道を説かれているのが植芝盛平翁なのです。古事記等に馴染みのない方にはちょっとしたハードルかも知れません。私も学生時代に『武産合気』の本を読んでも、何となく雰囲気しか分からなかったという記憶があります。ですが、四十年後の今、「あじまりかん」の秘密を解く過程で古神道の人間観や世界観を学んだ結果として、「ようやく植芝盛平翁の世界に近づくことができた」と嬉しかった訳です。
 斎藤は、「あじまりかんの道」によって「我即宇宙」の自覚を持った「天の浮橋に立つ神人」が全世界で多数輩出すると考えています。
 このことは、近日中においおい分かってくることだと思います。

◎「一厘の仕組」と植芝盛平翁の関係

 さて、本記事タイトルの「『一厘の仕組』は戦前に既に解かれていた」の意味はこうです。
 植芝盛平翁は戦前に、神そのものとなる最終段階の修行を経て「自分が神そのものとなったこと」を自覚されたと言われています。「神そのもの」の「神」とは大元霊=宇宙の大神さまという意味です。自分が宇宙の神さまと一体になってしまったのが合気道開祖である植芝盛平翁だったということになります。
 本記事で取り上げた書名『武産合気』とは、武による合気の産霊(むすび)という意味のかなり難しい言葉です。これは、大元霊(=宇宙の大神)と一つに成り切ったところから武による産霊(むすび)の御業を遂行するというものです。そんなことを言われても「エッ、何のこと?」と聞き返されかねないほど高次元の、考えたこともないような使命を、植芝盛平翁は戦前の若かりし頃に授かったのです。
 その時、植芝師は大本神諭で言われるところの「一厘の仕組(=一輪の秘密)」を解き切って、神様そのものの立場に立たれたのでした。植芝翁は神の化身となられた訳ですから、この宇宙の「一厘の仕組」そのものとなってしまわれたということなのです。翁自身「私のような人間は人類史上いまだかつていなかった」とおっしゃっています。
 かなり有名な「パインタラ事件」というのがありました。1924年、翁が41歳の時、大本の出口王仁三郎師のモンゴル行に着いて行って、危うく死刑となるところまでいったが、パインタラに駆けつけた日本領事館員の交渉により処刑は中止となり九死に一生を得たという出来事です。翁はその時には、境地としては出口王仁三郎師以上のところまで行っていたと考えられます。翁は武の世界で道を究め、宗教の世界では王仁三郎師の陰に隠れてしまっているのですが、霊位は王仁三郎師以上だったかも知れません。
 植芝盛平師は「一厘の仕組」をただ一人黙々と合気の世界で行じられた、不世出の神人だったのです。残念ながら同格の後継者はいません。翁から「五井先生は祈りのご本尊です。私はいつも五井先生と霊的に交流しており、その素晴らしさはよく分かっています」と言われていた白光真宏会の五井昌久師も同様です。五井先生と同等の人が輩出しなければならないのですが、そのようにはなっていません。
 でも、それでは駄目なのです。ミロクの世を創るには何千、何万の神人が必要なのです。つまり、数多の植芝先生や五井先生が必要なのです。そういう道でなければ意味がないのです。「植芝先生は偉い」とか「五井先生は素晴らしい」という人がどれだけいても駄目で、みんなが神格を得て神さまになって、みんなでミロク世=世界一家の地上天国を創らなければならないのです。そういう道は今まで皆無だったのです。「あじまりかんの道」とはそのような方法論でありシステムなのです。表現は俗っぽいですが、文化系でも体育会系でもなく、理科系・技術系・システム屋の発想が必要となるのです。
 そこで斎藤が登場したという訳です。筆者の仕事は、その「一厘の仕組」をペンによって「あじまりかんの道」として、誰でも容易に踏み行えるように、システムとして科学的に、技術的に明らかにすることにあります。システムにならない限り、あるいは、スマホのように一般化しない限り、神さまを何千人、何万人も育て上げることは不可能なのです。私が説いている「あじまりかんの道」とは、そのようなものなのです。
 私と植芝盛平翁は「一厘の仕組」との関わりにおいて、方法は違いこそすれ、同じ道を歩んでいるということになります。植芝翁という偉大なる神の化身に一冊の本を通じて出会ったに過ぎないのですが、読んでいるだけで自分が浄められ高められる心地がします。また、何とも言えない使命感のようなものを感じ、心身がキュッと引き締まる昨日今日なのです。

【参考資料】
・『植芝盛平先生口述 武産合気』白光真宏会青年合気道同好会、1976年
・『アジマリカンの降臨