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「あじまりかん」と引き寄せ?!

「あじまりかん」と引き寄せの関係とは?

本当の話:「あじまりかん」と引き寄せ?!/斎藤 敏一

作成:2018年4月9日、最終更新日:2018年5月5日

 特に質問があったわけではないですが、「あじまりかん」を唱えながらいわゆる「引き寄せ」をやってよいかどうかについて考えてみたいと思います


◆「引き寄せ」とは何か

 まず、「『引き寄せ』とは一体どういう行為なのか」を考えてみましょう。
 「引き寄せ」とは文字通り、自分が欲するモノや状態を実現させようとする行為全般を意味しています。
 そもそも、私はこの「引き寄せ」という願望丸出しの言葉が好きではなかったので、「あじまりかん」の本を書いた時にも、「引き寄せ」の世界を考慮することは全くありませんでした。ところが、世の中広いもので、「あじまりかん」で願いが叶うということを聞かれた方の中には、「引き寄せ」術で勇名を馳せておられる方もおられたわけです。

①「願いを叶えたい」という気持ちには「引き寄せ」が含まれている!

 『唱えるだけで願いが叶う――「あじまりかん」の法則』というのが、私の最初の本の題名でした。ここには「願いが叶う」というキーワードが入っており、当然ながら「願いを叶えたい」人たちを引き寄せたわけです。
 つまり、私の本自体が一種の引き寄せ術を使っていたという事実が浮かび上がってきます。本のタイトルによって多くの人の興味を引くには、それなりのテクニックが必要なわけで、コピーのテクニックを上手に使えていたように思います。
 この「願いが叶う」というキーワードを含め、本のタイトルを提案されたのは出版コンサルタントの岡山氏だったのですが、おかげで拙著はかなりたくさん売れました。
 簡単に言えば、私自身の願いである「『あじまりかん』を多くの人に知ってもらいたい」が叶えられたのです。「あじまりかん」本の著者自らが、意図したか意図しなかったかは別にして、「引き寄せ」術のお世話になっていたのです。
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 筆者自身の以上の事実からも、「引き寄せの法則」が使われて功を奏したことは認めざるを得ません。筆者としてはあからさまに「引き寄せ」を謳っていないにも関わらず、本のサブタイトルとして(引き寄せテクニックを)使っていたので、「引き寄せ」の悪口を言うことはできそうにありません。

 このような事が分かってしまったからには、そもそも「引き寄せ」とは一体何かをキチンと定義する必要がありそうです。

②「引き寄せ」とは願望達成のための普遍的なテクニック

 前述のように、筆者自身が自分の願いを叶えるために暗黙のうちに引き寄せのテクニックを使っていたのだから、「何かを引き寄せたいという願望」を持つことの是非を問う必要があるわけです。
 大切なのは、「引き寄せ」を使うかどうかではなく、当人が引き寄せようとする対象が正しいモノかどうかを検証すべきであるということだと分かってきました。おおよそ、引き寄せのテクニックは何かをしようとする人間にとってごく普通の意識操作だということが分かります。

・自分の希望を明確にイメージとして描くこと
・思い描いたイメージを実現するために必要な行動を取ること

 これは、大昔から願望を叶えてきた人たちが普通にやってきたことであり、そのこと自体は悪いことでも何でもありません。引き寄せのテクニックそのものは、善でも悪でもなく、純粋な意識操作のテクニックであると言えます。
 「引き寄せ」とは願望達成のための普遍的なテクニックでしかないということになります。
 そうなると、「あじまりかん」を唱える際に、思い描く願望の内容自体が問題になります。
 どうしてこんなことを言うのかといえば、「あじまりかん」は神に由来する言霊だからです。つまり、自分の願望が神の心にかなっているかどうかが問題となるのです。
 
もっと分かり易く言えば、願望には「正しい願望」と「誤った願望」とがあるということです。つまり、「あじまりかん」を唱えて「正しい願望」を実現することはできても、「誤った願望」を叶えることはできないということになりそうです。

◆「あじまりかん」では「引き寄せ」も「欲望」もOK

 「引き寄せ」というテクニックそのものには善悪は存在しません。だから、神のエネルギーである「あじまりかん」が善悪の問題をコントロールします
 ある人が「お金が欲しい」という想いで「あじまりかん」を唱えるとしましょう。この「お金が欲しい」という気持ちは明らかに欲望ですが、そのお金で助かった人が正しいお金の使い方をすれば問題はないわけです。「○○さんと結婚したい」とか「△△の職業に就きたい」などという願望も、みんなが幸せになるのであれば全く問題ないということになります。
 でも、その願いが正しいか間違っているかをすべて自分で判断可能かと言えば、難しいケースがあります。では自分の願望の善悪を誰に判断してもらえば良いのでしょうか?
 ここまで読んでこられた方には既に解答が見えているのではないでしょうか。
 そうです。自分の願いの善悪や正否については、神さまに判断してもらえばよいのです。この場合の神さまとは「あじまりかん」の言霊です。これは極めて不思議なことなのですが、「あじまりかん」は言霊なので霊的な実体=神さまが存在しています。その神さまに結果をお任せすればよいのです

 日本書紀には、神武天皇の段に「賊軍の兄磯城(えしき)が要害を作って神武天皇の進軍をはばんだ時に、天皇の夢の中に天神が現れて『天神地祇を祀って厳咒詛(いつのかじり)をなせ』と忠告する」場面が出てきます。この「厳咒詛」とは、呪うことで、神の命として敵を呪うこともあったのです。神武天皇、神功皇后、応神天皇の三人には神から霊力(言霊の力)が与えられており、敵を大いに呪ったという記述があるのです。
 だから、神の力を持った人間が敵を呪うために「あじまりかん」を唱えたり、神に祈ったりすることも古代人の感覚ではOKだったということになります。ここは誤解しないでいただきたいのですが、神(=言霊)の力を使う場面というのは、非常に範囲が広かったということなのです。
 でも、みなさんは、決して「あじまりかん」を使って人を呪ったりしないでください(実際には正しい「呪い」も存在しますが、この世界に入ると色々大変ですので、入らないようにした方が無難です)。これは真面目なお願いです。
 以下は、本記事の結論です。
 「あじまりかん」を唱える時には、セーフティロックが働きます。つまり、悪いことはできません。

 ですから、「あじまりかん」を唱えて、お金やモノをどんどん引き寄せても大丈夫です。とにかく、良い目的で「あじまりかん」を唱えることです。
 また、「あじまりかん」を唱える時に、「引き寄せ」や「欲望」の要素があっても、そのこと自体は問題はありません。ただし、それが実際に叶えられるかどうかは「あじまりかん」=神さま次第です。
 自分の願いの是非が判断できない場合、その願いを持って「あじまりかん」を唱えて構いませんが、結果は「あじまりかん」に委ねるという潔さを待ちたいものです。

【参考資料】
『ヤタガラスの正体–神の使い「八咫烏」に隠された古代史の真実』関裕二著、廣済堂新書。
・『神武と応神 「祟り王」の秘密』関裕二著、小学館新書
 関裕二氏の古代史本には「神」の文字が入った天皇(皇后)が大いに人を呪った恐ろしい大王であることが語られている。