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「一輪の秘密(アジマリカンの降臨)」で書き切れなかった秘密の話

「あじまりかん」と引き寄せ?!

「あじまりかん」と引き寄せの関係とは?

本当の話:「あじまりかん」と引き寄せ?!/斎藤 敏一

作成:2018年4月9日、最終更新日:2018年5月5日

 特に質問があったわけではないですが、「あじまりかん」を唱えながらいわゆる「引き寄せ」をやってよいかどうかについて考えてみたいと思います


◆「引き寄せ」とは何か

 まず、「『引き寄せ』とは一体どういう行為なのか」を考えてみましょう。
 「引き寄せ」とは文字通り、自分が欲するモノや状態を実現させようとする行為全般を意味しています。
 そもそも、私はこの「引き寄せ」という願望丸出しの言葉が好きではなかったので、「あじまりかん」の本を書いた時にも、「引き寄せ」の世界を考慮することは全くありませんでした。ところが、世の中広いもので、「あじまりかん」で願いが叶うということを聞かれた方の中には、「引き寄せ」術で勇名を馳せておられる方もおられたわけです。

①「願いを叶えたい」という気持ちには「引き寄せ」が含まれている!

 『唱えるだけで願いが叶う――「あじまりかん」の法則』というのが、私の最初の本の題名でした。ここには「願いが叶う」というキーワードが入っており、当然ながら「願いを叶えたい」人たちを引き寄せたわけです。
 つまり、私の本自体が一種の引き寄せ術を使っていたという事実が浮かび上がってきます。本のタイトルによって多くの人の興味を引くには、それなりのテクニックが必要なわけで、コピーのテクニックを上手に使えていたように思います。
 この「願いが叶う」というキーワードを含め、本のタイトルを提案されたのは出版コンサルタントの岡山氏だったのですが、おかげで拙著はかなりたくさん売れました。
 簡単に言えば、私自身の願いである「『あじまりかん』を多くの人に知ってもらいたい」が叶えられたのです。「あじまりかん」本の著者自らが、意図したか意図しなかったかは別にして、「引き寄せ」術のお世話になっていたのです。
      *      *      *
 筆者自身の以上の事実からも、「引き寄せの法則」が使われて功を奏したことは認めざるを得ません。筆者としてはあからさまに「引き寄せ」を謳っていないにも関わらず、本のサブタイトルとして(引き寄せテクニックを)使っていたので、「引き寄せ」の悪口を言うことはできそうにありません。

 このような事が分かってしまったからには、そもそも「引き寄せ」とは一体何かをキチンと定義する必要がありそうです。

②「引き寄せ」とは願望達成のための普遍的なテクニック

 前述のように、筆者自身が自分の願いを叶えるために暗黙のうちに引き寄せのテクニックを使っていたのだから、「何かを引き寄せたいという願望」を持つことの是非を問う必要があるわけです。
 大切なのは、「引き寄せ」を使うかどうかではなく、当人が引き寄せようとする対象が正しいモノかどうかを検証すべきであるということだと分かってきました。おおよそ、引き寄せのテクニックは何かをしようとする人間にとってごく普通の意識操作だということが分かります。

・自分の希望を明確にイメージとして描くこと
・思い描いたイメージを実現するために必要な行動を取ること

 これは、大昔から願望を叶えてきた人たちが普通にやってきたことであり、そのこと自体は悪いことでも何でもありません。引き寄せのテクニックそのものは、善でも悪でもなく、純粋な意識操作のテクニックであると言えます。
 「引き寄せ」とは願望達成のための普遍的なテクニックでしかないということになります。
 そうなると、「あじまりかん」を唱える際に、思い描く願望の内容自体が問題になります。
 どうしてこんなことを言うのかといえば、「あじまりかん」は神に由来する言霊だからです。つまり、自分の願望が神の心にかなっているかどうかが問題となるのです。
 
もっと分かり易く言えば、願望には「正しい願望」と「誤った願望」とがあるということです。つまり、「あじまりかん」を唱えて「正しい願望」を実現することはできても、「誤った願望」を叶えることはできないということになりそうです。

◆「あじまりかん」では「引き寄せ」も「欲望」もOK

 「引き寄せ」というテクニックそのものには善悪は存在しません。だから、神のエネルギーである「あじまりかん」が善悪の問題をコントロールします
 ある人が「お金が欲しい」という想いで「あじまりかん」を唱えるとしましょう。この「お金が欲しい」という気持ちは明らかに欲望ですが、そのお金で助かった人が正しいお金の使い方をすれば問題はないわけです。「○○さんと結婚したい」とか「△△の職業に就きたい」などという願望も、みんなが幸せになるのであれば全く問題ないということになります。
 でも、その願いが正しいか間違っているかをすべて自分で判断可能かと言えば、難しいケースがあります。では自分の願望の善悪を誰に判断してもらえば良いのでしょうか?
 ここまで読んでこられた方には既に解答が見えているのではないでしょうか。
 そうです。自分の願いの善悪や正否については、神さまに判断してもらえばよいのです。この場合の神さまとは「あじまりかん」の言霊です。これは極めて不思議なことなのですが、「あじまりかん」は言霊なので霊的な実体=神さまが存在しています。その神さまに結果をお任せすればよいのです

 日本書紀には、神武天皇の段に「賊軍の兄磯城(えしき)が要害を作って神武天皇の進軍をはばんだ時に、天皇の夢の中に天神が現れて『天神地祇を祀って厳咒詛(いつのかじり)をなせ』と忠告する」場面が出てきます。この「厳咒詛」とは、呪うことで、神の命として敵を呪うこともあったのです。神武天皇、神功皇后、応神天皇の三人には神から霊力(言霊の力)が与えられており、敵を大いに呪ったという記述があるのです。
 だから、神の力を持った人間が敵を呪うために「あじまりかん」を唱えたり、神に祈ったりすることも古代人の感覚ではOKだったということになります。ここは誤解しないでいただきたいのですが、神(=言霊)の力を使う場面というのは、非常に範囲が広かったということなのです。
 でも、みなさんは、決して「あじまりかん」を使って人を呪ったりしないでください(実際には正しい「呪い」も存在しますが、この世界に入ると色々大変ですので、入らないようにした方が無難です)。これは真面目なお願いです。
 以下は、本記事の結論です。
 「あじまりかん」を唱える時には、セーフティロックが働きます。つまり、悪いことはできません。

 ですから、「あじまりかん」を唱えて、お金やモノをどんどん引き寄せても大丈夫です。とにかく、良い目的で「あじまりかん」を唱えることです。
 また、「あじまりかん」を唱える時に、「引き寄せ」や「欲望」の要素があっても、そのこと自体は問題はありません。ただし、それが実際に叶えられるかどうかは「あじまりかん」=神さま次第です。
 自分の願いの是非が判断できない場合、その願いを持って「あじまりかん」を唱えて構いませんが、結果は「あじまりかん」に委ねるという潔さを待ちたいものです。

【参考資料】
『ヤタガラスの正体–神の使い「八咫烏」に隠された古代史の真実』関裕二著、廣済堂新書。
・『神武と応神 「祟り王」の秘密』関裕二著、小学館新書
 関裕二氏の古代史本には「神」の文字が入った天皇(皇后)が大いに人を呪った恐ろしい大王であることが語られている。

「あじまりかん」は合気道と同じ

神国日本(横山大観)

本当の話:「あじまりかん」は合気道と同じ/斎藤 敏一

作成:2018年3月13日、最終更新日:2018年5月5日


◎山蔭基央師と佐藤定吉博士のライフワークを継承する

 私は2014年頃、佐藤定吉博士の『日本とはどんな国』を丁寧に読み直すという機会を持ちました。そこには、「あじまりかん」の秘密の一端が書かれていたのです。
 それから二年余りの間「あじまりかん」を唱え続けました。その間、「あじまりかん」の言霊が常に私を導いてくれました。「あじまりかん」よりインスピレーションを与えられ、遂に二冊のあじまりかんの本が完成したのです。「あじまりかん」そのものが私に本を書かせたとしか言いようのない出来事が起こったのです。
 佐藤博士の『日本とはどんな国』の以下の一節が私に「あじまりかんは神の言霊である」という確信を与えました。

「その(「あじまりかん」を唱えている時の)全体から来る霊的波長は、
 
どうしても『神と人』とが一如になり、『神』が人の中から顕現する時の
 霊の響きのように受け取られる」

 佐藤博士はこの「神」の正体について一言も語りません。だがそれは、佐藤博士が山蔭神道の説く大元霊=造化三神のことを知らずして、昭和三十年代に亡くなられたためです。
 当時はまだ、山蔭基央師の著作群が存在していませんでした。だから、古神道的な神の認識方法が手近な情報として得られなかったのです。
 斎藤は、処女作『アジマリカンの降臨』の執筆を通じて、この『神』が大元霊であることを感得できました
 「あじまりかん」の言霊の本義=実体は大元霊なのです。すなわち、「あじまりかん」という言葉には本体霊が存在しており、その本体霊とは大元霊=造化三神=宇宙創造神=最高神=人類共通の神なのです。

 まさに「あじまりかん」は大元霊のコトタマなので、唱えると大元霊が(波動として)降臨するのです。山蔭神道が二千年の間伝承してきた「あじまりかん」は大元霊の言霊であったということなのです。
 「あじまりかん」は大元霊の言霊(言語的顕現)です。だからこそ、「あじまりかん」を唱えれば、全人類が宗教や信仰に関わらず無条件に救われるのです。今こそ「あじまりかん」の大いなる力を汲み出す時です。
 故山蔭師が預言された「新しい神話」(記事「あじまりかんは貴方を自由にする」を参照)とは、師の足下に初めから回答として存在していたのです。その回答とは大神呪「あじまりかん」です。佐藤博士によれば、山蔭神道は天皇神道とも呼ばれ、天皇行法の中核である「あじまりかん行法」の伝承主体でした。
 「あじまりかんと大元霊の関係」は「ものすごい真実」であるが、不思議なことに誰もがそのことに気付かなかったのです。
 故山蔭基央師の預言であった「新しい神話」の意味を発見したのは、山蔭神道とは無関係の、当時はソフトウェア・エンジニアであった筆者だったということになります。
 私はそのことに気付いた時、故山蔭師の遺影を思い浮かべて、「山蔭先生。ついに『あじまりかん』で大元霊が降臨しましたよ」と報告しました。
 故山蔭師には、筆者が三十代の時に一度だけお目にかかっているという間柄でしかないのですが、師の預言成就は筆者に委ねられたのです。
 もっとも、これは私が勝手に思っているだけで、山蔭神道より公認されている訳ではありません。また、公認されるべき必然性や必要性もないと考えています。すべては私が自分の責任で、正しいと信ずることを実行すればよいからです。
 大本預言・日月神示の「一輪の秘密/一輪の仕組」の正解は、誰も想像しなかった山蔭神道の大神呪「あじまりかん」に隠されていたのです。

◎「あじまりかん」の科学=神の実在を前提とする科学

 私には、この種の事柄(「あじまりかん」の秘密)を解明するための基本的条件が備わっています。
 この条件とは、「自分の心身を使って神さまなどの霊的事象を科学する」という生き方を意味しています。
 私は身を持って体験したことしか信じない質(たち)です。

 私が「身を持って体験したこと」とは、「身をもって神の存在を体験したこと」という意味です。この一節の意味を正しく理解していただくには、もう少し説明が必要になります。
 「自分の身体を使って」という以上、「そもそも神という目に見えない存在を体験したり認識したりすることが可能なのか」という疑問を抱く方が出てきても不思議ではありません。
 筆者は自分の身体で、神や霊などの目に見えない存在を波動的に検知できます。自分は昔からそういう体質なので、誰でも私と同じように感じることができると思っていたのですが、妻に自分が感じているものを確かめると「感じない」と言われることが多いです。
 だが、よくよく尋ねてみると「何となくこういう感じ」というものはあるようです。そういう場合、私が感じているものと基本的には一致しています。誰でもある程度は目に見えないものを感じることができるようです。
 ただ、私の場合、その感覚をいつも普通に使っているので、妻よりはハッキリ感じるという事情があるようです。多くの人は私の妻と同じように「神や霊を感じない」と思い込んでいるだけで、実際には感じているというのが正しそうです。気配や雰囲気と言えば、誰でも感じます。「気配や雰囲気を感じる能力だったら誰でも持っている」ということは正しいでしょう。この能力は実は霊的な能力なのです。
 次に、無用な誤解を避けるため、本書で筆者が使用する「科学」という言葉の定義を明確にしておきましょう。
 本記事における「科学」とは、「神の実在を大前提とする科学」です。「神」とは「目に見えないけど実在する貴い霊的存在」という意味です。すべては「神の実在」という一点からスタートします。
 だから、「目に見えない存在は信じない」という方には本記事の内容は不適合となってしまいます。現在の物質科学だけを信じる方には、本記事の論旨は苦痛かも知れません(そういう方は本記事を読むこともないから気にすることはないのですが……)。

 だが、現在の物質科学では測定できない目に見えない貴い存在があると考える方には、本記事の内容はすんなり受け入れることができると信じます。
 そもそも、私がどうして「科学」という言葉を使うかと言えば、「神さまの世界に接触するための経験的な知識の集積」が厳然として存在するからです。
 「あじまりかん」とは、古代より日本人が唱え続けてきた貴重な体験の集積でもあります。体験の集積とは、再現性の証拠です。「あじまりかんを唱えれば、不思議な力が働いて守られ幸せになる」という体験が積み重ねられてきたのです。神の存在が目に見えずとも、「あじまりかんは効く」のです。また、「あじまりかん」を唱えれば、誰でも神の存在を感じるのです。

◎「あじまりかん」は合気道と同じだ

 「あじまりかんの科学」とは、「あじまりかん実修者」が各々の肉体を使って体験を積み重ねてゆくという、掛け値なしの方法論です。

植芝盛平翁の演武(投げられた人は「自分がどうして飛ばされたのか分からない」と言う)

 合気道などの武道では、日々の修練が欠かせないものですが、「あじまりかん」の場合は、日々「あじまりかん」を唱えて自己点検することが武道の修練に相当します。合気道のように身体を動かす必要はありませんが、心と声を使って身体に「あじまりかん」を鳴り響かせなければなりません。この方法は武道には見えませんが、知らず知らずのうちに心身を使っているので、立派な武道なのです。
 この方法に従えば、合気道開祖の植芝盛平翁のような達人になってしまうのです。
 どうしてそうなるのか? それは次のような理由からです。
 「あじまりかん」を唱えれば唱えるほど、大神さまより御霊(みたま)をいただくことができます。これを「御霊のふゆ」と呼びます。元の意味は「神さまからお蔭をいただく」ですが、実際に御霊が増えるのです。だから、実修者は絶え間なく霊的な成長を積み重ねていくことができます。
 そして、いつの間にか、想像もできないほどの魂力(たまぢから)・霊力をいただいてしまうのです。「あじまりかん実修者」は知らず知らずのうちに、魂的に霊的に大きく育ってゆくのです。日々「あじまりかん」を唱え続けるという積み重ね、鍛錬の効果は武道の修練と全く変わらないのです。
 掛け値なしの体験の集積こそが科学なのです。それも「あじまりかん実修者」が自分の肉体を使って体験を積み重ねるという、武道と全く同一の仕組を使う科学なのです。それしか実効性のある方法は存在しないのです。
 そして、「あじまりかん実修者」は最終的に、大神さまと一体の神人になってしまうのです。これは合気道開祖の植芝盛平翁と同じ境地なのです。もちろんこれは、我々「あじまりかん修行者」が完全に翁のような武道の神さまと等しくなるという意味ではありません。ですが、翁と同じ世界に到達可能なのです。しかも、合気道とは違って、身体を痛めることもなく楽に達人の境地に入ってゆくことができます。
そのようにいいことづくめなのが「あじまりかん」なのです。

◎植芝盛平翁の「信仰の力が必要」の意味とは

 植芝盛平翁は生前、「信仰の力がないと天の浮橋に立つことができない」と説かれました。この「信仰の力」とは、霊の修行によって得られる霊的な力を意味しています。翁は修業時代に、大本の出口王仁三郎師に師事したり、古神道や言霊に関連した学びを重ねることによって、自身の霊肉併せた武道の完成を目指しておられました。
 肉体の方の修行に関しては合気道の型などを通じて体得可能です。しかし、霊の修行に関しては「信仰の力が必要」としか語らず、具体的にどうすれば霊の力を身に付けることができるのかについては語りませんでした。
 これでは、合気道の修行者が達人の境地を目指そうとしても、修行者が各自、自分で工夫するしかないわけです。肉体の修行だけでは合気道という武道は完全なものとはならないのですから、植芝盛平翁のような方が合気道の世界に数多登場することは困難だということになります。
 翁が言われている「天の浮橋に立つ境地」とは、霊肉共に修行ができて神人一如になった状態を意味します。そうなるには、霊の修行が欠かせないわけです。一体何をすれば、武道の修行者が霊の力を身に付けることができるのでしょうか?
 ここで、合気道等の武道の世界に身を置かれた方たちのために一言だけアドバイスします。

「『あじまりかん』を唱えれば霊の修行ができるので、植芝先生のような境地に到達できます」

 まあ、だまされたと思って「あじまりかん」を唱えてみて下さい。あなたの武道が内側から大きく変わってゆくことは間違いありません。そして、とことん「あじまりかん」を唱え切って下さい。あなたはいつの間にか「天の浮橋に立っている自分」を見出すことでしょう。神人一如の武道家が誕生するのです。

【参考資料】
一輪の秘密は既に戦前に解かれていた!?
あじまりかんは貴方を自由にする
あじまりかんは科学だ!
・『植芝盛平先生口述 武産合気』白光真宏会青年合気道同好会、1976年
・『アジマリカンの降臨

「一厘の仕組」は既に戦前に解かれていた!?

本当の話:「一厘の仕組」は既に戦前に解かれていた!?/斎藤 敏一

作成:2018年1月16日、最終更新日:2018年5月5日


◎正月早々ビックリしたこと(その2)

 「2018年は何か大きなことが起きる年になりそうです」と、先日の記事「これが大元霊のお姿だ!」で書きました。
 実はつい先日のことですが、もう一つビックリするような出来事がありました。仕事部屋の片付けを兼ねて屋根裏部屋でめぼしい本探しをしていた時のことです。『植芝盛平先生口述 武産合気(たけむすあいき)』という学生時代に購入した本を読み返す機会があったからです。その本は、昭和五十一年に白光真宏会青年合気道同好会から出版されたものですが、合気道開祖・植芝盛平翁の講話を口述筆記したもので、その内容の素晴らしさにビックリしたということなのです。翁は、こんなことを合気道同好会の青年たちに語っています。

 釈迦やキリストや孔子にまかせてはおけない。もう予言の時代は過ぎた。今はそれを実行に移すだけです。各々が天之御中主神(空即実相)にならねばならない。私達は一柱の神ではなく、八百万の神にみんな守護されているのです。これからは各々の天命を全うするように進んでゆくのです。皆さんお願いしますよ。

 ビックリしたのは、「大元霊=宇宙の大神さま」のお姿に関して話されている以下の一節です。

 一霊四魂三元八力の大元霊が、一つなる大神のみ姿である。大神は一つであり宇宙に満ちて生ける無限大の弥栄の姿である。即ち天なく地なく宇宙もなく大虚空宇宙である。その大虚空に、ある時ポチ忽然として現る。このポチこそ宇宙万有の根源なのである。そこで始め湯気、煙、霧よりも微細なる神明の気を放射して円形の圏を描き、ポチを包みて、初めて◎(ス、中央は実際には黒丸。以下同様)の言霊が生まれた。
 これが宇宙の最初、霊界の初めであります。
 そこで宇大は、自然と呼吸を始めた。神典には、数百億年の昔とあります。そして常在(すみきり)すみきらいつつ即ち一杯に呼吸しつつ生長してゆく。ゆくに従って声が出たのである。言霊が始まったのである。キリストが「はじめに言葉ありき」といったその言霊が◎(ス)であります。これが言霊の始まりである。

 記事「これが大元霊のお姿だ!」の前山さんからの報告にある「まるにチョン、台風の目のような、渦のような物が見えます」の「まるにチョン」のところに相当する「宇宙創生」のお話だということになります。
 植芝盛平翁の次ような一節はいかがでしょうか?

 合気道とは、宇宙の万世一系の理であります。
 合気道とは天授の真理にして、武産(たけむす)の合気の妙用であります。
 合気道とは、天地人、和合の道、とこうなるのであります。
 また合気道とは、万有の処理の道であります。
 合気道とは、言霊の妙用であり、宇宙みそぎの大道であります。
 この道を思惟する人は、宇宙建国完成の経綸に奉仕しなければならないことになっております。

 上記の文中の「合気道」を「あじまりかんの道」に置き換えて読んでみました。するとどうでしょう。私が拙著「あじまりかん」シリーズで伝えたいと思っていることになってしまうことに気付いたのです。「ああ、私と植芝盛平翁は同じなんだ・・・」という感覚です。

◎斎藤と植芝盛平翁の違い

 斎藤が『アジマリカンの降臨』で書いたことと植芝盛平翁が語っている内容は同じ世界から来ているということが分かったのです。つまり、植芝先生は「あじまりかん」すなわち、大元霊そのものの立場で語っておられるのです。それは当然でしょう。植芝盛平翁は、白光真宏会の五井師をして「植芝先生は神の化身だよ」と絶賛せしめた方なのですから。植芝先生の教えも最高でないはずがありません。
 「暗に斎藤の言っていることが最高だと言っているみたいだ」という声が聞こえてきそうです。はい、斎藤が語ることは最高だという気持ちがあることは否定しません。なぜなら、私は「あじまりかん」で大元霊が降臨するという話を語っているのですから、理論的には最高だと思っています。
 ですが、大きな違いがあります。武産合気という言葉からも分かるように、植芝盛平翁の道は、武の道です。一方、斎藤が説いている「あじまりかんの道」は普通人の実践可能な道です。それに、極めて簡単です。
 さらにもう一つの違いがあります。植芝盛平翁と同等の方は合気道からは出ていないのではないかということです。つまり、植芝先生と同レベルの神格を生きている間に体現された方は武道界にはいないのではないかと思うのです(もしおられたらごめんなさい)。植芝先生の『武産合気』の本を読んで「スッキリ分かった」と明言できる方は非常に少ないのではないでしょうか。神の化身が口述されたお話は極めて高度な悟りの世界なです。おまけに、その内容を頭で分かったとしても武道の世界のことですから、行が伴わなければ分かったことにはならない訳です。だから、理屈が分かってもおいそれとは植芝盛平翁の境地には到達できないということになります。こういう方は不世出、つまり、後にも先にも翁ただ一人でしょう。合気道で千人、万人の植芝盛平が輩出するということはあり得ない訳です。
 これはあくまでも斎藤の見解ですが、「あじまりかんの道」の場合は、誰でも斎藤と同程度(神人一如の自覚に達すること。斎藤はまだ発展途上なので、悟りのレベルは最高ではないです。残念ですが・・・)にはなれると考えています。その理由は、「あじまりかんを唱えると無条件に大元霊が(波動として)降臨する」からです。すぐに立派な境地になれる訳ではないですが、無心に「あじまりかん」を唱え続けることによって、徐々に「神人一如」の自覚ができてきます。だんだんと普通の人から神さまに近い人へと成長し続けることができるのです。
 「あじまりかんの道」は、古神道の言葉をあまり使っていない(使う場合は必ず解説しています)ので理論が一般向けで分かり易いはずです。そのため、我々のような普通人でも実践し易いと思います。「あじまりかん」を唱えると神の直接体験が可能です。ですから、誰でもその気になれば神と一つになれるのです。その点が「あじまりかんの道」が易行道だという最大の理由です。
 いずれにせよ、翁も斎藤も「最終的に天の浮橋(後述)に立つ神人とならなければ、神の経綸の大業は果たせない」という考えです。この「天の浮橋に立つ」心境になるには、それなりの修行が必要です。私自身、そこまで行っているかどうか心許ないのですが、少しでもそこに近づきたいと日々努力しています。

◎「天の浮橋に立つ」ということ

天の浮橋に立つイザナギ・イザナミの二神

 植芝翁の教えで特に印象に残る言があります。それは「天の浮橋に立って」という言葉です。図のナギ・ナミ二神は天の浮橋に立たれており、これから国産みをなさろうとしている場面です。
 重要なのは、天の浮橋に立つとは「御親=大元霊=大神様に帰一した状態」であるということです。キリスト教的な言い方をすれば「自分の十字架を背負ってイエスに着いてゆく」ということです。私はキリスト教の十字架という言葉が好きではないので、「身を捨てて天地の十文字の交点に立つ」というような表現を使います。とにかく、最後はそこに行き着くのです。そこからでなければ、天地の経綸は進めてゆけないのです。
 翁は常々「天の浮橋に立って事を為すべし」と説かれています。このように、古事記等の神典に登場する言葉を使って道を説かれているのが植芝盛平翁なのです。古事記等に馴染みのない方にはちょっとしたハードルかも知れません。私も学生時代に『武産合気』の本を読んでも、何となく雰囲気しか分からなかったという記憶があります。ですが、四十年後の今、「あじまりかん」の秘密を解く過程で古神道の人間観や世界観を学んだ結果として、「ようやく植芝盛平翁の世界に近づくことができた」と嬉しかった訳です。
 斎藤は、「あじまりかんの道」によって「我即宇宙」の自覚を持った「天の浮橋に立つ神人」が全世界で多数輩出すると考えています。
 このことは、近日中においおい分かってくることだと思います。

◎「一厘の仕組」と植芝盛平翁の関係

 さて、本記事タイトルの「『一厘の仕組』は戦前に既に解かれていた」の意味はこうです。
 植芝盛平翁は戦前に、神そのものとなる最終段階の修行を経て「自分が神そのものとなったこと」を自覚されたと言われています。「神そのもの」の「神」とは大元霊=宇宙の大神さまという意味です。自分が宇宙の神さまと一体になってしまったのが合気道開祖である植芝盛平翁だったということになります。
 本記事で取り上げた書名『武産合気』とは、武による合気の産霊(むすび)という意味のかなり難しい言葉です。これは、大元霊(=宇宙の大神)と一つに成り切ったところから武による産霊(むすび)の御業を遂行するというものです。そんなことを言われても「エッ、何のこと?」と聞き返されかねないほど高次元の、考えたこともないような使命を、植芝盛平翁は戦前の若かりし頃に授かったのです。
 その時、植芝師は大本神諭で言われるところの「一厘の仕組(=一輪の秘密)」を解き切って、神様そのものの立場に立たれたのでした。植芝翁は神の化身となられた訳ですから、この宇宙の「一厘の仕組」そのものとなってしまわれたということなのです。翁自身「私のような人間は人類史上いまだかつていなかった」とおっしゃっています。
 かなり有名な「パインタラ事件」というのがありました。1924年、翁が41歳の時、大本の出口王仁三郎師のモンゴル行に着いて行って、危うく死刑となるところまでいったが、パインタラに駆けつけた日本領事館員の交渉により処刑は中止となり九死に一生を得たという出来事です。翁はその時には、境地としては出口王仁三郎師以上のところまで行っていたと考えられます。翁は武の世界で道を究め、宗教の世界では王仁三郎師の陰に隠れてしまっているのですが、霊位は王仁三郎師以上だったかも知れません。
 植芝盛平師は「一厘の仕組」をただ一人黙々と合気の世界で行じられた、不世出の神人だったのです。残念ながら同格の後継者はいません。翁から「五井先生は祈りのご本尊です。私はいつも五井先生と霊的に交流しており、その素晴らしさはよく分かっています」と言われていた白光真宏会の五井昌久師も同様です。五井先生と同等の人が輩出しなければならないのですが、そのようにはなっていません。
 でも、それでは駄目なのです。ミロクの世を創るには何千、何万の神人が必要なのです。つまり、数多の植芝先生や五井先生が必要なのです。そういう道でなければ意味がないのです。「植芝先生は偉い」とか「五井先生は素晴らしい」という人がどれだけいても駄目で、みんなが神格を得て神さまになって、みんなでミロク世=世界一家の地上天国を創らなければならないのです。そういう道は今まで皆無だったのです。「あじまりかんの道」とはそのような方法論でありシステムなのです。表現は俗っぽいですが、文化系でも体育会系でもなく、理科系・技術系・システム屋の発想が必要となるのです。
 そこで斎藤が登場したという訳です。筆者の仕事は、その「一厘の仕組」をペンによって「あじまりかんの道」として、誰でも容易に踏み行えるように、システムとして科学的に、技術的に明らかにすることにあります。システムにならない限り、あるいは、スマホのように一般化しない限り、神さまを何千人、何万人も育て上げることは不可能なのです。私が説いている「あじまりかんの道」とは、そのようなものなのです。
 私と植芝盛平翁は「一厘の仕組」との関わりにおいて、方法は違いこそすれ、同じ道を歩んでいるということになります。植芝翁という偉大なる神の化身に一冊の本を通じて出会ったに過ぎないのですが、読んでいるだけで自分が浄められ高められる心地がします。また、何とも言えない使命感のようなものを感じ、心身がキュッと引き締まる昨日今日なのです。

【参考資料】
・『植芝盛平先生口述 武産合気』白光真宏会青年合気道同好会、1976年
・『アジマリカンの降臨

 

これが大元霊のお姿だ!

本当の話:これが大元霊のお姿だ!/斎藤 敏一

作成:2018年1月12日、最終更新日:2018年1月14日


◎「あじまりかん」を百万回唱えた方からの報告

 2018年は何か大きなことが起きる年になりそうです。
 年が明けてからのことです。『あじまりかんの法則』を読まれた福島県の前山さんから、次のような素敵なメールが舞い込みました。

 新聞の広告でしたか? 「あじまりかんの法則」を知りました。 「ああこれだ!」と思い、さっそく本を注文しました。(届くまで1ヶ月近くかかりました。)
 少しずつ、あじまりかんを唱えていましたが、きちんと数えて100万回に挑戦してみようと思いました。
 指折り数えたり、カウンターを使ったり、9月23日から始めて、12月27日に100万回を数えることが出来ました。

 「100万回あじまりかんを唱えた人がいつ登場するかな」と楽しみにしていたのですが、遂に登場しました。しかも、ちゃんとカウンターを使って数えられたということです。
 「あじまりかん」を唱え続けている間には、「臨時収入があったり、困ったことがあっても難なく済んだり、鼻血が出たり」と色々なことがあったそうです。
 百万回唱え切ったというのはすごいことなので、「おめでとうございます」という返事を書きました。さらにそのメールには、次のような続きがありました。

 目を閉じるといつも、丸にチョン、台風の目のような、渦のような物が見えます。
 それが大きくなって、白や金色に輝いて、熱いようだったり。 このまばゆい光とエネルギーをどう言葉であらわしたらいいかわかりません!
 夜九時に斎藤先生に意識を向けても、やはり同じような光✴や、エネルギーを感じます。

 「まるにチョン、台風の目のような、渦のような物が見えます」という部分を読んで、思わず以下のような説明を書きました。

 前山さんがご覧になっているものは「大元霊」と呼ばれる「あじまりかん」の本体である宇宙創造神のお姿です(人によって見え方や感じ方は色々です。無理に解釈する必要はありません)。
 宇宙創造神がご自身を分けられて一人一人の人間の直霊(なおひ)を産み出されたのです。「あじまりかん」を唱えることによって、無条件に宇宙創造神が降臨されるので、あなたのような体験をされる方も出てくるのです。感謝で受け止めていただければ結構です。

 私はいつも大元霊の波動を感じていますが、前山さんのように具体的な霊視はできないので、大いにビックリしたわけです。ビックリした訳というのは、拙著『アジマリカンの降臨』の中で、次のような大元霊の姿について書いていたからです。

宇宙の構造(渦巻き構造の例)

 「あじまりかん」という言葉は、宇宙を創造し続ける渦(うず)々(うず)しい神の姿を表現していることが分かる。
 写真「一輪の蓮華」と図「宇宙の構造」をご覧いただきたい。世尊(直接的には釈迦であるが、蓮華蔵世界の中心者である久遠の毘盧遮那仏の象徴である)が一輪の花を拈(ひね)って示そうとした真意が明らかになる。一輪の花の形が重要である。花には中心(=花心と軸)が存在する。同じように、宇宙において普遍的な「渦巻き」構造にも中心が存在する。釈迦は花を拈って見せたと言われるが、これは「中心を持った渦巻きを代表とする回転運動系」を示す所作だ。中心を持った物体の集合は回転を伴うが、回転することによって渦巻き構造(あるいは回転運動系)が維持される。大本・日月神示が語る「一厘の仕組」とは、宇宙を成り立たせている渦巻きの法則そのものだったのだ。

 前山さんのレポートを読んで「これはすごいぞ。絵に描いていただこう!」と思い、お願いして絵を描いていただいたのです。

◎これが大元霊のお姿です

 前山さんから送っていただいた画像(見たままをクレヨンで描いていただきました)をご紹介します。

丸にチョン、台風の目のような、渦のような物
それが大きくなって渦巻いている
白や金色に輝いて、熱いようだったり–造化三神の姿が現れている

 前山さんは、「あじまりかん」を唱えている間、いつもこのようなイメージをご覧になっているということです。
 新年早々すごいものを見せていただきました。
 前山さんには、この場を借りて感謝いたします。どうもありがとうございました。

 

【参考資料】
・『あじまりかんの法則
・『アジマリカンの降臨

あじまりかん=ドラゴンボール説(2)

生命の樹を彷彿とさせる巨樹(ブナの巨樹-2)
本当の話:あじまりかん=ドラゴンボール説(2)/斎藤 敏一
作成:2017年12月11日、最終更新:2017年12月19日
 
●あじまりかん玉とは何か?
 

 「あじまりかん=ドラゴンボール説(1)」で、真のドラゴンボールとはあじまりかんの玉であると述べた。本記事は、前記事の応用編であるが、もちろん本邦初公開である。何しろ「あじまりかん」という言霊の本質に気付いたのは斎藤が初めてなので、私が何か気付いたことを発表すれば自動的に全て本邦初公開となってしまう。
 実際に私はすごいことを公開しているのだが、何しろ目に見えない神さまの波動の世界のことなので、なかなか伝わらないことが多い。だから、ドラゴンボールのアニメからイメージを借りてお話しするしかないのだ。ドラゴンボールの作者である鳥山明氏には深く感謝しているのである。

●あじまりかん玉を実感するには?

 あじまりかんの玉とは、宇宙神界の創造エネルギーの波動が玉(粒)として形成されたものだ。これは目には見えないものだが、霊眼の開いた人からは光の玉として見える。霊眼が開いていない人にとっては光の玉は見えないので、気(波動)を感じるしかないのだが、これはその気になれば誰でも感じることができるものだ。
 あじまりかんの気を感じるための訓練も存在する。これはエーテル体という肉体と霊体の中間に存在するもう一つの身体を感じる(あるいは意識する)訓練によって達成される。霊感はないという方々もエーテル体や霊体は必ず備えておられるので、ちょっとの訓練で斎藤程度の感覚は身につけることが可能だ。詳しくは「あじまりかん講座」でお話しする予定なので、「あじまりかんの実感」を深めたい方は是非参加していただきたい(ここはコマーシャルでした)。

●あじまりかん玉を使うには?

 さて、目に見えない神さまのエネルギー波動を使うにはどうしたらよいのか?
 これは実を言えばとても簡単なのである。ただし、筆者のように「簡単だ」と言い切る背景には、あじまりかんのエネルギー波動そのものを感じることができるか(フィーリングの問題)、あるいは、そのエネルギー波動を観じることができるか(イマジネーションの問題)という認識・実感の問題が存在する。要は「神さまの波動を体感しているか否か」が、あじまりかん玉を自在に扱えるかどうかの鍵となる。
 これは日頃「あじまりかん」を唱える際に、「あじまりかんの波動」をしっかりと実感できているかどうかに依存する。要するに「神さまは波動として働かれる」のである。そして、「あじまりかんの波動」とは「造化三神(宇宙創造神)」の波動なのだ。これが「あじまりかんの肝」なので、しっかりと把握しなればならない。この波動は神界の最高レベルのエネルギー波動なのだ。
 斎藤が、この「あじまりかんの秘密」を明瞭に把握したのはつい最近のことだ。拙著『アジマリカンの降臨』では、歴史を含めて「あじまりかんの秘密」がほぼ完全に語られているが、その意味を深く理解するには色々な実践が必要となる。同著では、自分でも書いている時点ではピンと来ていないテーマや話題について一杯語っているので、本当に意味が分かるにはそれなりの時間が必要なのだ。

図3:あじあまりかん玉のイメージ?(ゲーム「ドッカンバトル」より)

●あじまりかん玉の使い方は超簡単

 あじまりかん玉の作り方と使い方は、全て想念の世界の操作なので何の苦労もない。ここで、大切なのは「あじまりかんの気(波動)」を籠めることだ。
 どうやるか分からない?
 実はとても簡単である。「あじまりかんの気」を実際に感じるだけでよい。自分の心の世界の中に「『あじまりかんの玉』が存在することを実感しさえすればよい」のだ。

(1) あじまりかん玉の作り方
 「あじまりかん」と念じて、玉ができているところをイメージする。

(2) あじまりかん玉の投げ方
 届け先を心に描いて、「飛んでいけ!」と念じつつ、届け先に到達することをイメージする。
 どこに届けたらよいのか?
 自分が気にしている人たち、愛する人たち、世界人類、どこでもよい。

 以上のように、とても簡単である。あじまりかん玉はそもそも神さまの世界からやってきた波動の固まりなので、思っただけで飛んでゆくのだ。
 アニメ「ドラゴンボール」の気弾(悟空達が作った気功玉のこと)はあくまでも人をやっつける目的の攻撃用の武器であるが、あじまりかん玉は人を活かす(実は神に変えてしまう)エネルギー弾である。その点誤解のないように。
 どんどん使えばよいのだ。使えば使うほど、貴方の周りの世界があじまりかんの波動で明るくなってゆくのである。そして、どんなに「あじまりかん」を使っても完全に無料なのだ。そう、「あじまりかん」の言霊は究極のフリーエネルギー(真の意味でのフリーエネルギー=宇宙創造の最も純粋な波動エネルギーである)なのであり、分かった人であれば無料で誰でも使えるのである。
 すごいだろう。
 貴方も今日から神さまの光を世に広める「あじまりかん玉使い」の仲間入りである。

 
あじまりかん=ドラゴンボール説(完)
 
 

あじまりかん=ドラゴンボール説(1)

生命の樹を彷彿とさせる巨樹(ブナの巨樹)
本当の話:あじまりかん=ドラゴンボール説(1)/斎藤 敏一
作成:2017年11月7日、最終更新:2017年12月19日
 
●アニメから「あじまりかんの正体」を理解する
 

 突然アニメの話で驚かれるかも知れないが、これは真実の話である。
 アニメ好きの方ならご存じだろうが、ドラゴンボールZに登場する悟空の「元気玉」というものがある。この元気玉とは、ドラゴンボールZの主人公である悟空が強敵と闘う時に、最後の切り札として使うプラズマ兵器の如き光の球のことだ。まだ、このような兵器は地球上には存在しないが、宇宙のどこかには存在するだろう。元気玉をご存じない方は、グーグルなどで画像検索されれば、元気玉とはどんなものかすぐに分かるだろう。
 アニメの題名となっているドラゴンボールとは本当は悟空の元気玉なのである。アニメでは、悟空たちが願いを叶えたくて神龍(シェンロン)を召喚するという目的で、世界中から捜し出して集める7個の玉をドラゴンボールと呼ぶらしい。だが、私の見るところ、7個の玉は神龍を召喚するためのパスワードに相当するものでしかない。神霊的な観点では、神龍こそが「真のドラゴンボールである元気玉」の管理者である。本来、神龍の上には神さま(神龍を支配している)がいるはずだが、アニメでは登場しない。
 さて、この超兵器である元気玉こそが真のドラゴンボールなのだが、アニメの設定は真実からはほど遠いものである。以下、アニメの元気玉について誤りを正そう。

図1:元気玉とは光り輝く銀河のような渦エネルギーだ

(1) 元気玉の作り方
  アニメ:生きとし生けるものから元気を奪って作られる
  真実:宇宙神界で無尽蔵のエネルギー(=大元霊)から作られる

(2) 元気玉の用途・目的
  アニメ:敵を倒すための破壊&殺人兵器
  真実:生きとし生きるものに元気を与える活人兵器(?)

(3) 元気玉の利用者
  アニメ:悟空しか元気玉を使えない
  真実:誰でも好きなだけ元気玉を使うことができる

 以上のように、真の元気玉であるドラゴンボールは誰でも使えるのである。悟空のように超人的な(カンフー)修行をする必要はない。そして、使う人の器に応じたパワーを、その人や周囲の存在たちに無条件に与えるのだ。
 ここで、「元気玉」を「あじまりかん」と置き換えてみよう。私が、ここでドラゴンボールの話をしている意味が少し分かりかけてきたのではなかろうか。

 アニメの元気玉は問題あり過ぎ!
 
 実は、私は子供と一緒にドラゴンボールZのアニメを毎週楽しみにして見てきた人間だ。原作者の鳥山明氏には何の罪もないのだが、私が神界に行って見てきた(これはあくまでも比喩であり、一種のビジョンとして観察された)ドラゴンボールとは、巨大なアジマリカンの渦だったのだ。宇宙神界に実在するドラゴンボール=元気玉とは「あじまりかん」だったのである。
 
図2:余りにも禍々しいアニメの元気玉
 
 アニメの元気玉の何が問題かと言えば、人殺しの兵器となっていることであり、極めて禍々しいのである。たかが子供の見るアニメなので、別に目くじらを立てる必要はないのだが、神界で神々が準備している超巨大な元気玉を見てしまったので、アニメのイメージは本来の元気玉からはかけ離れた邪悪なものになってしまっていることが分かったのだ。
 
真の元気玉とは「あじまりかんの玉」である!
 
 私が、つい最近見たビジョンでは「巨大なあじまりかんの元気玉」が神界に準備されており、2017年末から2018年以降に、大盤振る舞いされるのを待っている。元気玉を配るのは、このブログの読者、つまり、「あじまりかん友の会」とその関係者(主に拙著の読者)のようだ。
  真の元気玉は「人を活かす玉」で、神界から無料で配布されるエネルギー(=究極のフリーエネルギー)なのである。先ず、「あじまりかん」を唱える人に真の元気玉=ドラゴンボールが配給される。そして、唱えている人から周囲の人たちへと元気玉が分かれて配布されてゆくというイメージである。図1の銀河のような渦と光の玉ができると思っていただければよい。
 真の元気玉はフリーエネルギーなので、どれだけ唱えてもタダである。何しろ、エネルギーの供給元は宇宙神界であるから、使っても使ってもなくなる心配はない。悟空は「みんなオラに少しずつ元気を分けてくれ」などと言いながら元気玉を作るのであるが、これが全く違っているのだ(アニメでは人から元気を奪うことで元気玉を作るという、全く愚かしいコンセプトになっている)。
 本当の元気玉とは「あじまりかんの玉(=神さまのエネルギーボール)」であり、神界から無尽蔵のエネルギーが降りてくるのである。使う人(「あじまりかん」を唱える人)の器に合わせて、神さまのエネルギーが流れることになっている。全て自動的に神図り(かむはかり)に図られて、エネルギーが流れるのだ。
  エネルギーがどのように流れ、どのように使われるのかについては、項を改めてお話ししたい。