天皇行の神髄

富士と桜

日本とはどんな国?:天皇行の神髄 /斎藤 敏一
作成:2018年1月8日、最終更新:2018年5月5日
 
●『日本とはどんな国』(佐藤定吉著)について
 
 佐藤定吉博士(1887-1960)の遺作『日本とはどんな国–秘められた人類救世の原理』は、私のあじまりかん関連著作において決定的な影響を及ぼした本である。
 何が決定的だったかと言えば、山蔭神道が「天皇行法」を伝承する古神道系の教派神道団体であり、別名「天皇神道」とも呼ばれていることを知ったからだ。
 「天皇行法」という名前については、故山蔭基央師の多くの著作のどれかで読んだことがあるかも知れない。だが、その意味も含めて理解したのは佐藤博士の前掲書を読み返したからこその出来事であった。
 天皇行法の実体が「自霊拝」と「あじまりかん」であることが初めて分かり、それらの行法に重大な意味「日本国家成立と存続に関わる根本的な存在価値」があることを初めて公開したのが『日本とはどんな国』だった。

 さて、以上を前置きとして、『日本とはどんな国』の本文を読んでいくことにしよう。同著の白眉とも言える内容は「第一編 聖書相応の国日本」の以下の章である。

 第四章 天皇行法(天皇神道)
 第五章 天皇行の核心
☆第六章 天皇行の神髄
 第七章 天皇行の『あじまりかん』

 以降、「第六章 天皇行の神髄」の全文を掲載する。文中の茶色部分「例:(原子核に喩えるならば、「陽子(プロトン)と中性子(ニュートロン)」とすべきであろう)」は、斎藤の補足説明である。

 天皇行の核心–『日本とはどんな国』第一編より
 

第六章 天皇行の神髄
 
(一)国家生命の中核
 
 天皇行の真髄は、『自害拝』と『あじまりかん』の二つから成る。
 換言すると、この『自霊拝』と『あじまりかん』の二つが、『日本神道』という一生命的元素の原子核にあたるものである。また、これが日本という一つの『いのち』の樹の『幹』にあたるともいえよう。(佐藤博士の語る「日本神道」とは、我々の知っている神社神道や伊勢神道、国家神道とは全く異なる神道である。そもそも神道とは8世紀に日本書紀が成立した際に、本来の日本人の信仰であるオリジナル神道を覆い隠すために人為的に作られた神道である。博士は無意識に「日本神道」という言葉を採用されているが、「日本」なる言葉が含まれる以上、その成立は日本(=大和)建国の時であると考えざるを得ない。斎藤の認識では、天皇神道の成立は初代天皇である応神天皇=神武天皇が即位した時である。詳細は拙著『アジマリカンの降臨』を参照されたい)
 すなわち、これまで日本神道が取り扱って来た国家神道や神社神道、また民間神道のすべては、『白雲拝』と『あじまりかん』の幹から生え出た枝であり、それらが幹ではなかった。
 これを近代科学の例でいえば、従来の民間に伝えられた神道は、水素、酸素、金、銀、銅、鉄などの元素を、ただその外形だけを認識していた古典科学的な智見にあたり、本論文で明示しようとする『自霊拝』と『あじまりかん』は、近代原子核科学の『プロトーン』(陽子)(原子核に喩えるならば、「陽子(プロトン)と中性子(ニュートロン)」とすべきであろう。だが、この比喩自体が昭和二十年代の原子核物理学の知識に基づいているため不適切である。この種の記述が「永続」・「無限」等の意味合いで行われていることを知っておく必要があると思われる)にあたる。
 すなわち、原子核内部の在り方が、元素の外形を決定する事実に似て、天皇の『自霊拝』と『あじまりかん』の『いのち』の在り方が、古来の神道の外形的表現を決定していたのである。
 だから、日本神道を理解しようとする者は、何としてもその根元である天皇の『自霊拝』と『あじまりかん』が何を意味しているのか。これを先ず学ぶ必要がある。この二つを知らずしては、未だ日本神道を知ったとはいわれない。
 これまでの著者は、長い年月のあいだ神道を学んだが、どうしても割り切れぬものが残った悩みの原因はここにあった。末葉だけを探って、その根幹の『いのち』を知らなかったからだ。
 そこで著者は、自分が陥入っていた長年の失敗経験から、世界の人々に申したい。初めて日本神道を学ばんとする欧米の諸君は、著者のとった道筋とは反対に、先ず第一に、天皇神道の本質的『いのち』である『白霊拝』と『あじまりかん』の二つを深く学び、かつ深くそれを修行して、その真髄をしっかりと把握して貰いたい。(傍線は筆者。この部分に関しては佐藤博士は完全に正しい。つまり、斎藤も同意見である。さらに、外国人だけでなく、日本人もそのようにすべきである)
 そうすると、天皇行の『いのち』の表現である国家神道、その他の神道は、水の高きより低きにつくように、おのづから解(わか)ってくるであろう。
 この在り方は丁度、私たち科学の学徒が欧米に留学した時に、第一に物理、化学、またその他の科学について、先ずその基礎理論を学び、次にその応用として、工業科学の実際を修習した。そうすると、いも早くかつ容易に科学と、その実際応用学の道を握り締め得る。それと同様に、今は欧米の求道者諸君は、東洋の光である日本神道の『いのち』について、その理論とその実際の道を、科学の筋道で学びなさることをおすすめする。

(二)西洋の考え方と東洋の考え方

 天皇行の秘伝を語ろうとする時に、著者が欧米の友に語りたいと思うことは、東西両洋の考え方が、互いに逆になっているということである。まずこのことを注意したい。
 欧米の学術は、先ずその原理法則を、公式によって簡明に表示し、ついでそれが原理であることを事実によって論証し、しかる後に、その原理の応用として、さまざまの新現象を推定誘導し、そこから新発見と新発明とを産み出すことを常則にしている。
 近代の科学文明は、こうした筋道によって産み出された。欧米の世界的貢献がこのところにある。筆者は一個の科学の学徒として、その生涯をこうした考え方のもとに、習熟させられてきたことに対し、深甚の感謝をもつ。
 ところが東洋の考え方を見ると、正(まさ)にそれとは百八十度の逆である。東洋では、何事か前人未踏の新発見をしたたらば、これを西洋のごとくに、花やかに発表しない。その根本となる原理は『秘伝』として少数者だけに伝える。ここに東西両洋の『行き方』に相違がある。
 それで、東洋文化の方では、幾千年にわたる訓練と熟達とが、遂に人間的な『わざ』を越えて、超人的な技能を発現する場合が数々産まれてくるが、その、Technicを一般公衆に、理路整然と学的に表示することが難かしいものが多い。
 科学的考え方に鋳込まれている欧米人にとって、東洋的な奥義が一つのMystics(秘儀・秘伝)として、なかなかに把握しにくい理由がこのところにある。
 日本芸術の絵画や茶道、また能楽などに、他に追従を許さぬ幽玄味を持つ理由がこのところにあり、またその真髄を把握するのに、数々の困難のある原因もこのところにある。
 日本神道の最奥の天皇行の真理が、今日まで厳秘にされていた理由もこのところにある。日本神道の幽玄さを産み出している源泉は天皇神道の奥義の中にあるのだから、どうしても、今度は欧米の諸君にも、この天皇行の神秘を、欧米的な科学する心で握り締めてもらいたいものである。

(三)自霊拝とは何か

 いよいよ天皇行の原理について語ることにしよう。『自霊拝』の意味は、これを一言に要約すると、「自己の『たましい』を一枚の明鏡に保つこと」である、といったらよかろうと思う。
 日本国民の人間観は、自己を国家から離れて単独に存在するものとは認めない。天の側に、一本の『いのち』の『もとつ木』がある。自分はその一本の枝である。
 その枝の使命は、天の幹に流れるいのちをうけて、幹が成らせようとする花と果を、自分の枝先に成らせること。これがただ一つの自己の存在使命である。
 聖書に、『われは葡萄の樹、汝らはその枝なり』(ヨハネ伝十五章四節)とある。その聖言の『枝』になることが、日本人存在の真意である。
 こうなると、その枝に天の幹の『いのち』の樹液が流れ込み。その枝の中には、いつでも神の霊が止っている。
 ゆえに、日本では人(ひと)というのは、神の『いのち』が止まっているという意で、これを『霊(ひ)止(と)』と書く。
 自我に死に切って、神の霊が内部に止まるものでなければ、『ひと』とはいわれない。
 こういう神の霊の止まっている者のことを、昔から日本では『真(ま)人(ひと)』と申している。それは世の中には自我心の強い『うそひと』すなわち『偽りの人間』も沢山いるから、それに対して、日本本来の心をもつ人のことを『真人』というのである。
 そうした真人のなす『わざ』のことを『まこと』という。『まこと』とは『誠』である。
 『誠』とは神の『言』が、わが身の上に『成』と書く。これを聖書的にいうと、『神の言が成っている人。すなわち神の言がその人の中にIncarnateしている人という意である。
 こうした神の『まこと』が身に成っている人のことを、『ま』が『み』に転じて、『みこと』という。『すめらみこと』とは、神の言がIncarnateしている人のことをいうのである。後世に日本に漢字が入って来て以来、『天の位格についている大』という意味で、『天皇』という字をあてることになった。
 天皇とは、すなわち神の言が肉体の中に、Incarnateしている真の『霊止』という意である。
 こうした『たましい』になると、それまで見えなかった桜の木の『いのち』が美しい花となって、枝先に朝日に匂い、輝き出るように、天地の中に盈(えい)満(まん)する神の霊が、その真人の中に、輝きわたってあらわれてくる。
 この在り方を他の言葉でいうと、丁度一枚の明鏡に天の明月が、さながらにうつり出ている『すがた』に似ている。それで『うつし身』と申すのである。
 鏡自らは、ただ冷い光のないものである。しかし、光がうつると、鏡は全く見えなくなり、そこに見えるものは、ただ天の明月だけである。
 こうした天の明月と地上の一枝の明鏡との関係に、『神』と『自分』を常に保っている行法のことを、『自霊拝の行法』という。また、そういう『人』のことを『自霊拝の行者』という。
 すなわち、「われ生くるにあらず、『天の父』すなわち、『キリスト』がわがうちに生き給う」という『たましい』の生活行者が、白霊拝の行者である。
 イエスは『われを見し者は、天父を見しなり』(ヨハネ伝十四章九節)(*)と自己を紹介しておられる。そのイエスの霊の在り方と同様の在り方に成っていることを、日本では『自霊拝の行者』と中しているのである。(これは根本的な誤りである。イエス=天父ではないので、論の立て方そのものがおかしい。また、イエスには「自霊拝」や「あじまりかん」の教えもないし該当する修業方法も存在しない。全くの間違いであると知るべきであろう)
 日本神道の奥義は、ヨハネ福音書中の十四章九節の『神のことば』の通りに、自分の『たましい』を保つ行法である。
 日本という国は、その行法を幾千年の昔から、天皇御自身が身をもって実践しておられた国であった。
 聖書の方では、イエスがその霊境に堅く立ち給うて、その行法の結果として、溢れ出る神の霊力の実際を、イスラエルの民の前に顕現し給い、そして活ける天父の実在を実証されたのであったが、その行法を誰人でも再現出来る道については、公開されなかった。
 イエスが誰人にも語らず、秘めておられた『たましい』の在り方と同じ内容の行法が、不思議にも日本の天皇行として、今日まで皇統連綿として、脈々わが日本に伝えられているのである。
 日本という国は、何という不思議な『くに』であろうか。弟子ヨハネは、『イエスは神の受肉者であった!』と、声高らかにキリスト・イエスを世に紹介したが、その『神の受肉者となる秘中の秘に属する極秘の行法が、日本にそれと同質と思われる秘法が伝えられていたのであった。
 聖書ヨハネ福音書は、日本自霊拝の『顕(けん)相(そう)』にあたり、日本天皇神道は、聖書ヨハネ伝の『いのち』の密相にあたる、といってよいと思う。『顕密一体の関係』が聖書と日本天皇神道の関係であった。何という神の『ひめごと』ではないか。(聖書と日本天皇神道は全く関係がない。また、その証拠もない。聖書の記述に依拠して天皇神道を論ずること自体が完全な誤りである。以降にも同様の論述が頻出するが、すべて佐藤博士の信念を述べているだけに過ぎない。それらの記述は事実とは関係ないのである)
 
 こうした自霊拝行法により、天の活ける父神の霊が、地上の一行者の心の中に宿ると、そこにヨハネ伝におけるイエスの宣言と同様に、その鏡を見たものは、天の父神の光を見たものになるであろう。そして、それまで見えなかった『神』のすがたを、まざまざとその『人』の中に見つめることが出来るわけだ。
 断じて空漠なる観念の神ではない。鏡の中に活ける神を現実に拝し、神と面接する道である。
 『神』と『人』とは、決して懸隔してはいない。幹と枝の在り方である。相互に一体化しているのが本義である。すなわち、神人一如が宇宙の実相である。これがイエスの宗教体験であり、また日本の自霊拝の体験である。
 これまでのキリスト教は、主としてパウロの足跡に追従したゆえに、その主体が贖罪愛の一事にしぼりとられている。
 こういう欧米のキリスト教は、その在り方をさらに今一つ奥へ突き進んで、聖ヨハネがその福音書に伝える同書十四章九節のイエス体験のクライマックスまで登ってくるのが、順当な筋道であると思う。
 このクライマックスの最高峰へと欧米のキリスト教を高揚させるものが、東洋の宗教、特に日本の自霊拝の天皇行であろう。
 この面から見ると、日本の存在使命は、ただ一つのことに尽きる。すなわち、上記の全人類にかかおる霊界の秘義を明確に証詞する一点にあるといえる。
 日本の国の存在使命と、キリスト教の存在使命とは、こうした密接不離の関係につながれていたことを、欧米の先覚者が、深く納得してくれることを望む。
 因に、この自霊拝の行法の実際については、言葉の表現を越えるから、日本に来朝して自らその行法を実際的に指導を受け、その奥義に参堂されるようにすすめる。
     ×      ×      ×
 なお一言しておきたいことは、日本で神を霊覚する方法は、物心一如の原理に立つゆえに、霊のことは『物』の形の在り方であらわされて、決して欧米のごとき観念や、概念を用いない。
 それで自霊拝の心の在り方も、これを伝えるのに、観念を用いず、器物の鏡をもって表示する。鏡を授けて、『この鏡を見ること、われを見るごとくせよ』とのべられておられるのである。
 『おのが心を一面の鏡に見立て、その鏡の中に神を宿らせ申す。自分の心の中に、活ける神がつねに輝いて拝されるように、心を保持しておれ!』という貴い神意の伝授である。
 今日もなおいたるところの神社に一面の明鏡が供えられてあるのは、この神意の表示であることがわかる。

* ヨハネ伝第十四章九節「わたしを見た者は、父を見たのである」という一節については、拙著『アジマリカンの降臨』の「第十三章 イエス・キリストとの対決」において、「誤りである」と批判した。だが、佐藤博士のヨハネ伝第十四章九節に関する解釈は全く正しい。つまり、適切なものである。
 斎藤の批判は、「肉の身のイエスを通して父なる神を見よ」というイエスの言葉に無理があるという判断から出たものである。ただし、イエスのこの言葉には情状酌量の余地もある。なぜならば、日本に秘められていた天皇行、すなわち、「自霊拝」と「あじまりかん」をイエスが自身の教えとして説く状況ではなかったからである。これは、神の経綸上、許されてはいなかったことなのであり、当時の人々はイエスを通じてしか神の存在を感じる方法が与えられていなかったのだとも考えられる。天皇行はイエスの死後、日本建国時に、アメノヒボコによって、日本に仕組まれることになっていたからである。
 天皇行が存在する国である日本は真の神の国であり、イエスも肉の身では行きたくても行けなかった場所なのである。キリスト教などの一神教は極めて不完全で非科学的な宗教である。なぜかと言えば、そこには観念の神しか存在しないからだ。ところが、天皇行が存在する日本には実体としての神(造化三神=根源神=最高神=宇宙創造神=実神)が縄文時代より一貫して降臨していたからである。そのことは、おいおい歴史的な事実として証明されるであろうというのが、斎藤の予言である。

参考:日本とはどんな国?:天皇行法(天皇神道)
   日本とはどんな国?:天皇行の核心

天皇行の神髄 完
 
 

 

 
 
 
 

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