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「あじまりかん」と「自霊拝」

自霊拝の光景――実際には姿見などを使用する。中央の丸い鏡は神棚に付いてくるもの。小さいので猫の置物を使って撮影した。

霊的観点:「あじまりかん」と「自霊拝」/斎藤 敏一

作成:2018年4月6日、最終更新日:2018年4月9日

 『あじまりかん通信第3号』の「あじまりかんの渦、第3章 あじまりかんの渦が働く仕組(1)」より、 自霊拝の意味について紹介したい。

 ついに私なりに自霊拝の意味を把握できたと思えるような体験があったからである。

◆ようやく分かった自霊拝の意味――「あじまりかん」の結果を検証する

 最近、自霊拝の意味と役割がハッキリと見えてきた。
 「天皇行法は『自霊拝』と『あじまりかん』の二種類の行法から成り立っている」
 これは、佐藤定吉博士の『日本とはどんな国』に書かれていたことだが、どうして二種類の行法が存在するのか、今一つ明確になっていなかった。
 だが、筆者の自霊拝実践時の最近の体験を通じて、これらの修行の役割と関係が明確になった。
 昨年(2017年)末の「あじまりかん講座」において、「自霊拝」についての質問があったので、メールマガジンで自霊拝の意味ややり方を説明した。「自霊拝」と「あじまりかん」は全く異なる行法なので、各行法の特徴を理解して「合わせ技」として実践すると、相乗効果で著しい霊性開発が期待できる。
 先ず、メールマガジン「あじまりかんと自霊拝」の内容を再掲しよう。

       *       *       *

①自霊拝の意味とやり方について
 神社にお参りすると、拝殿の前や正面に鏡が掲げられている。凸面鏡になっており、よく磨かれた鏡面には自分の姿が小さく映る。私の家の仕事部屋には神棚があるが、その神棚の正面にも小さな鏡があり、真正面から鏡をよく見ると自分が映っていることが分かる。だが、凸面鏡なので映っている自分の姿はあまりにも小さく、ここで語る自霊拝という目的にはかなわない。
 この鏡は、起源としては日本書紀の天孫降臨の段に登場する同床共殿(どうしょうきょうでん)の神勅に出てくる八咫鏡(やたのかがみ)(三種の神器の一つ)がモデルとなっている。

【同床共殿(宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい))の神勅】
 読み下し文:吾(わ)が児(こ)、此の宝(たからの)鏡(かがみ)を視(み)まさむこと、当(まさ)に吾(あれ)を視るがごとくすべし。与(とも)に床(ゆか)を同くし殿(おおとの)を共(ひとつ)にして、斎(いわひの)鏡(かがみ)となすべし。

大意   :この宝鏡(八咫鏡)を見る際は、まさに私を見るような気持ちで見なさい。いつも宝鏡と同じ部屋で起居し、祀りを続けていきなさい。

 この八咫鏡は本来、天皇の生活空間に常時かけておくためのものだ。ところが、現在は伊勢神宮に秘匿され天皇すら拝することができないという異常な状態になっている。人は「畏れ多い」と言うが、ただの鏡である。ちっとも畏れる必要はない。そういうおかしな八咫鏡のことはひとまず忘れよう。
 実際に我々が自霊拝という行為(修行)を行う場合には、壁に掛かった普通の姿見や洗面所の鏡を使う。両手で合掌する必要があるので、手鏡は駄目である。少なくとも上半身(頭とバスト)が映る鏡が望ましい。
 同床共殿の神勅の主旨は、「鏡に映った自分の姿を神として拝みなさい」ということだ。非常に単純だが、それだけに難しい修行である。自霊拝という言葉の意味は、「自分の霊を拝む」ということだが、この霊とは直霊(なおひ)(直日霊)のことだ。つまり自霊拝とは、神から直(じか)に分かれた自分の霊を拝むということに尽きる。こういう素晴らしい教えが日本神話には秘められているのだ。
 このように自霊拝は単純明快な修行だが、それだけに非常に厳しい修行であるという言い方もできる。なぜかと言えば、通常は鏡に映った自分の姿を神であるとは思えないからだ。鏡にはいつもの自分が映っているだけなのに、それを神さまと思うなどという芸当は普通なかなかできるものではない。いきおい、真剣にならざるを得ないわけだ。
 あじまりかん講座の当日、参加者から「自霊拝を実践してますか?」という質問を受けた。私は、毎日自霊拝を忘れずに実践しているので、「はい、やっていますよ」と答えた。
 さらに、「正しいやり方とかはありますか?」と聞かれた。私の回答は「自分を必死の覚悟で拝み倒すことだ」というものであった。実際、最初の頃はかなり気合いを入れて拝んでいた(今はそうでもない)。拝みながら「神さまありがとうございます。ご苦労さまです」と挨拶する。それにかかる時間は十数秒というところだろうか、あっという間に終わってしまう。
 必ずしも私のようにやる必要はないが、「自霊拝を真剣にやればやっただけのことはある」というのが私の見解だ。一種の心構えが必要なので、自霊拝を始める時は少し抵抗を感じることがある。そこを乗り越えれば、後は習慣になるので楽にできるようになる。
 最初だけはあじまりかんを唱えるよりも難しいかも知れない。だが、実際にやってみると効果は非常に大きい。何よりも良いのは、自分が好きになり、「私は貴い神である」という自覚が深まることだ。

②自霊拝とあじまりかんとの関係
 自霊拝とあじまりかんは全く異なる修行なので、車の両輪のような関係になる。あじまりかんで神の顕現・降臨を受けて、自霊拝で顕現・降臨した神(自分の姿として顕現している)を拝むという関係である。
 修行の目的や方法が異なるので、どっちがどうだという比較はあまり意味がない。また、どっちを先にやるのかということも明確には決められない。私の場合は、先に「あじまりかん」、次に「自霊拝」であった。しかし、これは結果論であり、決まり事ではない。
 大切なのは、「自霊拝」にしても「あじまりかん」にしても、その意味をよく理解して実践することだ。どちらも素晴らしい行法なので、毎日続けることであなたの神性が日に日に開発されるだろう。また、貴方の人相も日増しに良くなってゆくことだろう。

◆自霊拝では誰にでも「あっ、神さまだ!」体験が起きる!

 この自霊拝を私自身が約半年の間真剣に行じたところ、最近になって、鏡に映った自分を本当に神と思えるようになったのだ。時折、白光に包まれた神々しい自分の姿を拝むことができるようになったのだ。
 自霊拝を始めた頃は、鏡の中の自分を無理やり「神さまだ」として拝んでいた。かなり気合いを入れていたのだ。だが、最近はそういうことはなくなり、鏡に映った自分の姿を見て、ごく自然に「神さまがいる」と思えるようになったのである。
 「あれ、これはどうしたことだろう? いつの間にか神さまになっちゃった」という感覚である。この「神さまになっちゃった」という感覚が重要である。この体験に自分自身が驚いたのであるが、驚くと同時に自霊拝の意味が分かったのだ。
 この時の感覚を「あっ、神さまだ!」体験とでも名付けよう。
 この体験は私だけのものではなく、「あじまりかんと自霊拝」を実践する誰にでも起こることだ。誰でも鏡に映った自分の姿を見て、「あっ、神さまだ!」と思う時が来るのである。既に私と同様の体験をされている方もおられるに違いない(報告を待っています)。
 鏡は嘘をつかない。そのままの自分を映し出すからだ。そのままの自分がいつの間にか神さまになってしまったことが分かったのだ。これは来る日も来る日も「あじまりかん」を唱えた結果である。
「なるほどそういうことだったのか。自霊拝で現在の自分の状態が分かるのだ」
「『あじまりかん』を唱えると神になる」ということを、私は自著の中で繰り返し語ってきたのだが、この体験をするまでは一つの疑問が残っていた。最後の疑問と言ってもよい。
 それは、「あじまりかん行者が本当に神になったかどうかをどうやって知るのだろうか?」という疑問である。
 その疑問に対する回答がようやく、図らずして与えられた。自霊拝こそが自身の「神さまへの到達度」を測る行法だったのだ。
 だから、天皇行法は「自霊拝」と「あじまりかん」がセットになっていたのだ。
 自霊拝を行えば、鏡に映った自分の姿を見ることで、自然に自分が神さまになったことが体験的に分かる。「あじまりかん」を唱えている自身を日々点検することが可能になるのだ。
 もちろん「神さま」になったから「あじまりかん」を唱えなくてもよいということではない。自霊拝で「あじまりかん」修行の到達度「神が自分の中に留まっているかどうか」をチェックできるということが重要なのである。
 ここに至って、「天皇行法というシステムの完成度が極めて高い」ことが証明されたのだ。天皇行法には到達度チェックの仕組が最初から備わっていたのである。
 信じられないぐらい良くできたシステムではないか!
 本章(前半)の結論としては、次のように整理できる。

・「あじまりかん」とは神の渦巻きエネルギーの波動で、唱えた人に神が留まる。
・「自霊拝」によって、行者がどの程度の段階に至ったかどうかを測ることができる。

 霊性開発のためには、天皇行法「自霊拝とあじまりかん」一本でよいのだ。それさえ継続してゆけば、誰でも神になれるし、神になったことが分かるのである。
 筆者は最近の自霊拝時の「あっ、神さまだ!」体験によって、改めて「自霊拝とあじまりかん」を続けていこうと思ったのである。

【参考資料】
日本とはどんな国?:天皇行法(天皇神道)
日本とはどんな国?:天皇行の核心
日本とはどんな国?:天皇行の神髄
日本とはどんな国?:天皇行の『あじまりかん』

天皇行の『あじまりかん』

富士の日の出を拝む

「一輪の秘密」外伝:日本とはどんな国解説:天皇行の『あじまりかん』/斎藤 敏一
作成:2018年1月8日、最終更新:2018年5月5日
 
●『日本とはどんな国』(佐藤定吉著)について
 
 佐藤定吉博士(1887-1960)の遺作『日本とはどんな国–秘められた人類救世の原理』は、私のあじまりかん関連著作において決定的な影響を及ぼした本である。
 何が決定的だったかと言えば、山蔭神道が「天皇行法」を伝承する古神道系の教派神道団体であり、別名「天皇神道」とも呼ばれていることを知ったからだ。
 「天皇行法」という名前については、故山蔭基央師の多くの著作のどれかで読んだことがあるかも知れない。だが、その意味も含めて理解したのは佐藤博士の前掲書を読み返したからこその出来事であった。
 天皇行法の実体が「自霊拝」と「あじまりかん」であることが初めて分かり、それらの行法に重大な意味「日本国家成立と存続に関わる根本的な存在価値」があることを初めて公開したのが『日本とはどんな国』だった。

 以上を前置きとして、『日本とはどんな国』の本文を読んでいくことにしよう。同著の白眉とも言える内容は「第一編 聖書相応の国日本」の以下の章である。

 第四章 天皇行法(天皇神道)
 第五章 天皇行の核心
 第六章 天皇行の神髄
☆第七章 天皇行の『あじまりかん』

 以降、「第七章 天皇行の『あじまりかん』」の全文を掲載する。文中の茶色部分「例:(原子核に喩えるならば、「陽子(プロトン)と中性子(ニュートロン)」とすべきであろう)」は、斎藤の補足説明である。

 天皇行の核心–『日本とはどんな国』第一編より
 

第七章 天皇行の『あじまりかん』

(一)未開の扉

 天皇行のうちで、最も神秘なものとして、畏(おそ)れ崇(あが)められている言葉がある。それが『あじまりかん』という言葉である。その言葉は、肇国の太古から宮中にあって現在の念仏名号や、題目のように、唱名されて今日にいたっている。
 鎌倉時代に勃興した日蓮や、法然、親鸞の念仏の唱名は、宮中に行なわせられる『あじまりかん』の唱名が、民間に洩れ、各宗が南無妙法蓮華経、また南無阿弥陀仏に転化させたものと思われる(佐藤博士の「あじまりかん」の唱名についての推察は、意外に、日本的な仏教宗派の発生、特に鎌倉仏教の発展に関する秘められた事情を言い当てている可能性が高い。今後の研究課題とすべきであろう)
 この『あじまりかん』は天皇を中心に、熱心に唱名され、天皇行のうち、自霊拝よりも、さらに重んじられ、尊敬された言葉であるという。
 しかるに、不思議なことは、すでに幾千年もその歴史が経過しているのに、未だ誰人もその言葉の意味を解したものがないということである。
 わからぬままに幾干年の間、唱名の声たえまなく、今日まで『神のことば』として仰がれてきた。
 近代になり、この言葉は梵語から転化したのではあるまいかと考え、学者に研究してもらったが、どうもそうではないらしい。その語源が何であるのか。一つの謎になっていたのである。
 著者は一九五七年の夏、初めてこの天皇神道のことを承わり、その中心核にあたる『あじまりかん』の言葉を聞き、その深遠幽玄なる行法の雰囲気の中に、これが何を意味するのであろうかと、思っていた。
 その全体から来る霊的波調は、どうしても『神と人』とが一如になり、『神』が人の中から顕現する時の霊の響きのように受けとられる。(傍線は斎藤。斎藤も佐藤博士のこの霊的認識と全く同一の体験をした。佐藤博士は間違いなく、「あじまりかんが神の顕現である」ことを直覚していた。斎藤は佐藤博士のこの一節で、「あじまりかんという言葉が尋常のものではなく、神に属するものである」ことを確信したのである)
 かく祈り求めている時、霊調が『ピタッ!』と合ったと思う時に、一つの光が、心をかすめた。それが『ヘブル古語の転化ではあるまいか』ということであった。
それで早速ヘブル語源と日本語の関係について研究しておられる在米の親しい牧師の、川守田英二博士に、その研究を依頼した。約一年半の後に、その研究の結果のレポートが来た。
 それには、「周到な研究を試みた結果、自分としては、『世の罪を負う祭司長』という意だと断定したい!(これが大間違いであった!)ということであった。そしてヘブル語の語源の註釈が書き添えてあった。
 博士は一九二五年、シアトルの一牧師在任の当時から、私の親しい信仰の友であり、その頃から、日本民謡の中に残存しているヘブル語の研究をしておられた。近来、『日本ヘブル詩歌の研究』という尨大(ぼうだい)な著書二巻を公刊した。その書の中で、古代日本の言葉の中には、数々のヘブル語が残っており、それが日本各地に民謡として伝えられているということを同博士は立証している。最近さらに新著を発表し、それには聖書歴史の密接不離の関係を明らかにしておられる。
 私は過去三十数年来の同博士との親交によって、彼の言語学上の研究に信頼をおいており(実際のところ、川守田氏の研究については、ユダヤの研究者であるM・トケイヤー師らが「学問的に信頼性が乏しい」と断ずるものであり、信を置いてはならないものであると思われる。斎藤の理解では、「あじまりかん」は日本語である! また、「あじまりかん」の日本語の意味については、機関誌『あじまりかん通信』創刊号で掲載した)、また筆者は、川守田博士とは別角度の現実面から、同様の真理性を保証し得ると信じている。
 今回の『あじまりかん』という言葉の研究は、まだ短期間であるから、『まちがいない!』と確定するには、もっともっと明確な実証の材料を整える必要がある。それで只今では、一つの仮定として余裕を残しておきたい。

(二)奥義の極致点

 天皇行法の内部構造から見て、『あじまりかん』という言葉の内容は、どうしても、自霊拝の行法に熟達したのち、その行法の奥義に入りこんで、心魂が明亮珠のように澄み切った時、うつりくる天の大御心の『すがた』であることであった。
 聖書に『心の清き者は幸福なり。その人は神を見うべし』(マタイ伝第五章八節)とある。
 自霊拝行法は、これを聖書的な表現をとると、このマタイ伝五章八節の『みことば』の在り方に、心を保持する一つの方法であると見られる。
 パウロのごとくに、罪より解き放たれきよめられて、キリストの中に自らを掻き消して、神をおのが心の中にうつす明鏡になる筋道もあるが、イエスはそうした筋道を取らないで、直截的に心を清くして神をうつし出す道を、弟子たちに語っておられる。またおのが内部から神の光の燦然と輝き出ている在り方を指示し、『われを見し者は、神を見しなり』と叫んでおられる。
 パウロ式でなく、イエスの直截的な方式の方が、日本の自霊拝の行法に近いかと思われる。そうした行法によって、映し出される『神』の大御心の『すがた』が、すなわち『親心の愛』(神が親であるというのは完全に日本的な認識のあり方であり、ユダヤ教には全く見られない。ただしイエスは「父なる神・天の父」という表現を多用しており、日本的な神の認識のあり方に近いが、神を「父」=男性神格で表現している点が気になる。斎藤の認識では、最高神は父神と母神を統合・超越した存在であるから、イエスの神認識は少なくとも最高神には到達してない。一方、「神が国や人、ありとしあらゆるものの親であること」は、人類にとって極めて重要な神の認識方法である。さらに、日本の天皇行=「自霊拝」と「あじまりかん」を降された神は、造化三神=大元霊=天津渦々八弥津奈芸天祖大神(あまつうずうずしやつなぎあめのみおやのおおかみ)=実神=根源神=宇宙創造神=認識可能な最高神なのである。また、その愛は広大であり、あらゆるものを産み出し活かし給うご先祖様・父母・肉親の慈愛である。天皇行の根本にはこの究極の神がおられ、日本建国と同時に天皇行も降されたのである。「日本が神の国である」というのは全く真実なのであり、この真実性は天皇行=「自霊拝」と「あじまりかん」によって裏付けられるのである。なぜなら「あじまりかん」という言葉の実体こそが大元霊なのであるから、日本が神の国の中の中心の神の国であることは当たり前のことなのだ。宇宙創造神が日本の本当の神なのであるからこそ、日本は神の国であり、この地球の霊的な中心たるべき資格と権威を太古より備えているのである)である。
 父母の愛の最も端的な表現が、すなわち『子供の罪責を負う親心の愛』である。
 この『愛』が、神の本質の像である。その神の『愛』の『うつし身』となって、自らが他の人の罪責を身に引きうけて、救いの手を差し伸べる者となる。その実践の道が、『あじまりかん』の行である。
 これを聖書の言葉で表わすと、すなわち『十字架を負う神の小羊』となることである。
 この『十字架を負う神の小羊』となり、すべての人を滅亡から救い出す一事が、日本国家の根本生命であった。それが日本国家の唯一の存在使命であった。
 主キリストは、ついに『世の罪責を負う神の小羊』となり、『あじまりかん』の行者となって、カルバリ山上、十字架上に死を遂げられた。そこから神の全人類への贖罪の巨手は動き出して来た。今日のキリスト教はそこから始まったのである。
 ところが、日本に使命づけられている『あじまりかん』は、個人救霊に目的はない。それはすでにイスラエル民族の方で、イエスの十字架によって完成している。日本の『くに』の負う使命は、個人救霊でなく、一国家、一民族を一単位の生命体にして、神に献身させ、霊なる神の『うつわ』にさせることである。
 この使命の準備のために、今日まで三千年の歴史が、地上の球根のように培われて来ている。球根であったから、これまでは世界の前に、あらわれなかったのである。天皇行が今日まで隠されていた理由がこのところにある。
 すなわち知る。かつて神は、キリスト・イエスを十字架につけて、神の巨力誘導の源泉となさせられた。日本という『くに』も、イエスにならって、『国家』が一人格となって、十字架を負う神の小羊になる『くに』であった。(この「十字架」という言葉の意味をキリスト教的に捉えることは間違いのもとであると考える。斎藤的な解釈を次節「(三)人の十字架と神の十字架」で掲載している)
 そういう『あじまりかん』の『くに』があらわれると、神はその『くに』を媒体にして、世界国家群の上に、聖霊を春雨のごとく降り注がせられるであろう。かくて全世界の上に、始めて国家と国家の交流が、神ごころのままに、正順の『すがた』に立ち帰るのであろう。
 こうして救われた国家と救われた国家の交流の起るところに、待望の世界平和と、人類幸福が結実することになるであろう。
 日本の『くに』という一存在は、そうした時代と、そうした全世界の救いの在り方のために太古から選ばれて、今日まで神の聖手によって守護され、導かれた国であった。
 ゆえに、これまでの世界状勢のように、個人と個人の『つながり』だけの文化に止まっている時代にあっては、その国の出現は尚早で、登場の時機ではなかったのである。
 つまり、日本という一人格の国家は、国家と国家のつながり方が、世界の中心問題になるまでは、楽屋裏で待機させられていた国であった。
 そして、この待機の期間中、『真に生くることは、神のために死する一事である』ということ、また『この死の中にこそ、真実の復活と永遠の勝利がある』ということ、また『その国を一つの媒体として、神の巨力は誘発されるであろう』ということ。
 こうした神界の厳そかな真理を深く体得させられ、その訓練を与えられてきた国、それが日本であった。

(三)人の十字架と神の十字架

 『あじまりかん』は、建国の当初、歴代天皇の中にも、明かに顕現されているが、近年では明治天皇の御詠の中に、極めて明白に、そのことが全国民の前に表現されている。
 『罪あらばわれをとがめよ天つ神、民はわが身の産みし子なれば』
 この大御心は、明らかに太古よりの祭祀として。年々歳々、六月と十二月に、宮中で行ぜられる大祓行事の中心生命である。その大御心をみうたによみ給うたものが、この御歌であると拝察される。
 この明治天皇の大御心を、今度の敗戦に際し、今上天皇御自身が、マッカーサーの前に、一身に敗戦の責めを負い給い、御自身が極刑をお受けになるから、国民を饑餓から狡い、『すべての戦犯者を解放してもらいたい!』と御自ら首の座につき給うた。
 この天皇御自らが、罪責を負う死の御覚悟の『まこと』を現わし給うたので、マッカーサーの心は一転し、苛酷な占領政策を緩和することに、急回転させられたのだと承知している。
 日本にとっては、古来未曽有の敗戦という非常時に際会して、日本国家の真生命の光が、闇夜にきらめく天の光のごとくに、『あじまりかん』の光が、現実に世界の前に輝き出たのであった。
 イエスにとっても、カルバリ山上、十字架の死というせっぱつまった悲惨な出来事の闇黒に立ったとき、突如として『救主キリスト』として一大光明が燦然とかがやき出たのであった。(「十字架」という言葉はキリスト教に限定された意味で使われることが非常に多い。結果として、「十字架」の意味がイエスの磔刑に固着されてしまうので、本来の意味から離れてしまう。「十字架」とは本来、縦=天と横=地の調和を意味している。宇宙・世界の姿を象徴化したものであると言える。これは決して犠牲を意味するのではなく、神の国の義が成就するという意味になる。イエスは十字架にかかることにより、人類の犠牲になったのではなく、神の国の義が成就したのである。このようにキリスト教の十字架の理解はイエスの磔刑という恐ろしい形式に完全に同化してしまい、本来の意味が失われてしまった。イエスは全人類の救主となっているらしいが、それはキリスト教のついた嘘である。イエス個人には全人類を救う力も権能も与えられていない)
 人が神のために十字架につく時にのみ、その人の上に、神の十字架が、燦然とかがやきわたる。これが神界の原則である。
 また、こうもいえるであろう。『神のために十字架につく者にのみ、神の十字架にある贖罪愛が、その人の所有になると。この一事は筆者の生涯を通じて、明確に保証される一法則である。
 十字架のないところに、神の栄光は拝されない。十字架の暗夜の後にのみ、復活の曙光は待たれる。
 『あじまりかん』のあるところにのみ、神の栄光と、神の稜威が仰ぎ見られる。このことは東西両洋の歴史を通じて、天日のごとき燦れる光明である。誰人もこれを否みうるものはない筈だ。
 日本の『くに』は、『あじまりかん』のくにであった。日本の天皇は、『あじまりかん』の行者であられる。
 天皇御自らは、断じて『神』ではない。神の贖罪愛のために、一身をささげておられる『あじまりかん』の行者であり、十字架を負う神の小羊でいまし給うたのである。
 全世界万民が、この天皇の御本来の御すがたに眼を止めて、その神の大愛のかがやきに心の焦点を合わされるよう、心からのぞむ。
 これを要するに、天皇は日本という『くに』の『いのち』の美しき花である。さらに、また日本とよばれる『くに』は、一つ神の『いのち』の花であった。花の蔭には、天的な幹と根のあることを忘れてはならぬ。天地創造の活ける『神のいのち』こそ、その根であったのである。
 日本を正しく理解するには、常にこの一点に考察の焦点を合わせる要がある。そうでないと、日本に関する批判の一切は、中心を外したエクセントリック(Eccentric)なものになるであろう。

(四)自霊拝と『あじまりかん』の相互関係 (*)

 日本国家にとって、一般文化は人の眼に見ゆる美花であり、神はその幹、天皇行はその木の全体を生かす根の『いのち』だ。
 また今一つの例でいうと、外形上の一般文化は、金銀などのごとき外に見ゆる元素の外形にあたり、神道はその元素内部の分子や原子にあたる。また、『天皇行法』は、まさにその『原子核』にあたる。
 そして『あじまりかん』は、原子核内の『プロトーン』、自霊拝は『ニュートロン』にあたるといってよいであろう。
         ×          ×          ×
 さらに、白霊拝とあじまりかんの相互関係は、次のようにたとえられるであろう。
 自霊拝は、明亮珠のような望遠鏡の『レンズ』であり、『あじまりかん』は天の光である。透明な『レンズ』を通して、内部に透入してくる天の光を仰いで、望遠鏡の存在目的は達せられる。

 自霊拝修行も、まことに尊い行法ではあるが、これは天の光をわが『心』の内部に正しく導入する方法であって、目的ではない。
 望遠鏡の造られた目的は、『レンズ』によって、天の光を焦点化し、天体のすがたそのままを如実にその中にうつし出す一点にある。
 そのためには、『レンズ』をいささかの曇りもない明鏡にする必要がある。
 心が明鏡になれば、おのずから天の光は、力強く心に注ぎ込まれ、天の側の『いのち』が、そのまま『うつし身』となってあらわれてくる。そこにおのづから神御自身の活動が、その人の中にあらわれる結果を産む。
 この神の活動の『あらわれ』が、すなわち『あじまりかん』である。
 神の本性は、『贖罪愛の母心』である。このことは、聖書が、これを明白に立証している。ゆえに、この神の光が、人の心に注ぎこまれると、おのづから自己が消えて、『世の罪を負う神の小羊』の貴い『すがた』があらわれてくる。
 この贖罪愛の『いのち』こそ、実に『神』自らの本性であられる。
 このことは、聖書がキリストの十字架を通して保証するところであり、天地は朽ち果つるとも、永遠に変りなき神の保証である。
 かくのごとく、贖罪愛が、神の『いのち』であることは、聖書がキリストの血判をもって、保証するところであるが、不思議なことに、その『贖罪愛』が、日本の『くに』の『いのち』として発芽して来た。
 そして、その『いのち』が、天皇の『あじまりかん』として、幾千年を通じて花のように美しく咲き匂うているのがすなわち日本歴史である。何とかがやかしい神の栄光と摂理ではないか。
         ×          ×          ×
 日本の『くに』が、澄み切った明鏡のような魂になる国であることは、太古からよくわかっていた。
 『みそぎ、はらい』の行事、また神社の一般行法は、このためにそなえられていた。これは天皇の自霊拝の行法を一般化したものである。
 日本は本来、『あじまりかん』の国、すなわち十字架の贖罪愛を実践する国であった。
 力をこめていう。日本は自らが、十字架の贖罪により、罪赦されて喜んでいる程度の国ではなかった。進んでイエスと共に、世の罪を負い、神の救を他にもたらす大乗的な、十字架の『いのち』の国であった。
 この、国の在り方が、天皇行にあらわれた日本の『くに』の本質的在り方である。すなわち、『あじまりかん』の国が、日本国家の本領であった。
         ×          ×          ×
 筆者は最近この事実を知り得て、多年自分の心の中にわだかまっていた一切の暗雲が、からりと晴れ、まことに大空に聳ゆる富士の高嶺を仰ぐような気がする。
 というのは、これまで、キリスト教と日本国体の間に、何かしらん。お互に矛盾するものがあるところを見出し、越え難い対立感の中にあった。ところが、この燦たる『あじまりかん』の光を仰いで、入信以来、過去五十数年の黒雲は、全く晴れわたって了った。何というすがすがしさであろうか。これこそ、筆者にとって
 『あな 天晴れ
  あな たのし
  あな おもしろ
  あな さやけ』である。

(*) 自霊拝とあじまりかんとの関係
 佐藤博士の説明は合っているのだが、キリスト教的表現が多すぎて分かり難いところが残念である。以下、斎藤流に説明しよう。


 自霊拝とあじまりかんは全く異なる修行なので、車の両輪のような関係になる。
 あじまりかんで神の顕現・降臨を受けて、自霊拝で顕現・降臨した神(自分の姿として顕現しています)を拝むという関係でである。
 修行の目的や方法が異なるので、どっちがどうだという比較はあまり意味がない。また、どっちを先にやるのかということも明確には決められない。筆者の場合は、先に「あじまりかん」、次に「自霊拝」であった。しかし、これは結果論であり、決まり事ではない。
 大切なのは、「自霊拝」にしても「あじまりかん」にしても、その意味をよく理解して実践することである。どちらもとても素晴らしい修行であるから、毎日続けることで貴方の神性が日に日に開発されることは間違いがない。
 また、「自霊拝」には「自霊拝行者の神さま度判定」という重要な役目がある。鏡に映った自分を神として拝むのであるから、自分が本当に神さまになっているかが分かるのだ。「あじまりかん」を唱えることで神さま度がアップするから、自分がどのくらい神さまになったかがチェックできるのである。

参考:日本とはどんな国?:天皇行法(天皇神道)
   日本とはどんな国?:天皇行の核心
   日本とはどんな国?:天皇行の神髄

 
天皇行の『あじまりかん』 完
 
 

 

 
 
 
 

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天皇行の神髄

富士と桜

日本とはどんな国?:天皇行の神髄 /斎藤 敏一
作成:2018年1月8日、最終更新:2018年5月5日
 
●『日本とはどんな国』(佐藤定吉著)について
 
 佐藤定吉博士(1887-1960)の遺作『日本とはどんな国–秘められた人類救世の原理』は、私のあじまりかん関連著作において決定的な影響を及ぼした本である。
 何が決定的だったかと言えば、山蔭神道が「天皇行法」を伝承する古神道系の教派神道団体であり、別名「天皇神道」とも呼ばれていることを知ったからだ。
 「天皇行法」という名前については、故山蔭基央師の多くの著作のどれかで読んだことがあるかも知れない。だが、その意味も含めて理解したのは佐藤博士の前掲書を読み返したからこその出来事であった。
 天皇行法の実体が「自霊拝」と「あじまりかん」であることが初めて分かり、それらの行法に重大な意味「日本国家成立と存続に関わる根本的な存在価値」があることを初めて公開したのが『日本とはどんな国』だった。

 さて、以上を前置きとして、『日本とはどんな国』の本文を読んでいくことにしよう。同著の白眉とも言える内容は「第一編 聖書相応の国日本」の以下の章である。

 第四章 天皇行法(天皇神道)
 第五章 天皇行の核心
☆第六章 天皇行の神髄
 第七章 天皇行の『あじまりかん』

 以降、「第六章 天皇行の神髄」の全文を掲載する。文中の茶色部分「例:(原子核に喩えるならば、「陽子(プロトン)と中性子(ニュートロン)」とすべきであろう)」は、斎藤の補足説明である。

 天皇行の核心–『日本とはどんな国』第一編より
 

第六章 天皇行の神髄
 
(一)国家生命の中核
 
 天皇行の真髄は、『自害拝』と『あじまりかん』の二つから成る。
 換言すると、この『自霊拝』と『あじまりかん』の二つが、『日本神道』という一生命的元素の原子核にあたるものである。また、これが日本という一つの『いのち』の樹の『幹』にあたるともいえよう。(佐藤博士の語る「日本神道」とは、我々の知っている神社神道や伊勢神道、国家神道とは全く異なる神道である。そもそも神道とは8世紀に日本書紀が成立した際に、本来の日本人の信仰であるオリジナル神道を覆い隠すために人為的に作られた神道である。博士は無意識に「日本神道」という言葉を採用されているが、「日本」なる言葉が含まれる以上、その成立は日本(=大和)建国の時であると考えざるを得ない。斎藤の認識では、天皇神道の成立は初代天皇である応神天皇=神武天皇が即位した時である。詳細は拙著『アジマリカンの降臨』を参照されたい)
 すなわち、これまで日本神道が取り扱って来た国家神道や神社神道、また民間神道のすべては、『白雲拝』と『あじまりかん』の幹から生え出た枝であり、それらが幹ではなかった。
 これを近代科学の例でいえば、従来の民間に伝えられた神道は、水素、酸素、金、銀、銅、鉄などの元素を、ただその外形だけを認識していた古典科学的な智見にあたり、本論文で明示しようとする『自霊拝』と『あじまりかん』は、近代原子核科学の『プロトーン』(陽子)(原子核に喩えるならば、「陽子(プロトン)と中性子(ニュートロン)」とすべきであろう。だが、この比喩自体が昭和二十年代の原子核物理学の知識に基づいているため不適切である。この種の記述が「永続」・「無限」等の意味合いで行われていることを知っておく必要があると思われる)にあたる。
 すなわち、原子核内部の在り方が、元素の外形を決定する事実に似て、天皇の『自霊拝』と『あじまりかん』の『いのち』の在り方が、古来の神道の外形的表現を決定していたのである。
 だから、日本神道を理解しようとする者は、何としてもその根元である天皇の『自霊拝』と『あじまりかん』が何を意味しているのか。これを先ず学ぶ必要がある。この二つを知らずしては、未だ日本神道を知ったとはいわれない。
 これまでの著者は、長い年月のあいだ神道を学んだが、どうしても割り切れぬものが残った悩みの原因はここにあった。末葉だけを探って、その根幹の『いのち』を知らなかったからだ。
 そこで著者は、自分が陥入っていた長年の失敗経験から、世界の人々に申したい。初めて日本神道を学ばんとする欧米の諸君は、著者のとった道筋とは反対に、先ず第一に、天皇神道の本質的『いのち』である『白霊拝』と『あじまりかん』の二つを深く学び、かつ深くそれを修行して、その真髄をしっかりと把握して貰いたい。(傍線は筆者。この部分に関しては佐藤博士は完全に正しい。つまり、斎藤も同意見である。さらに、外国人だけでなく、日本人もそのようにすべきである)
 そうすると、天皇行の『いのち』の表現である国家神道、その他の神道は、水の高きより低きにつくように、おのづから解(わか)ってくるであろう。
 この在り方は丁度、私たち科学の学徒が欧米に留学した時に、第一に物理、化学、またその他の科学について、先ずその基礎理論を学び、次にその応用として、工業科学の実際を修習した。そうすると、いも早くかつ容易に科学と、その実際応用学の道を握り締め得る。それと同様に、今は欧米の求道者諸君は、東洋の光である日本神道の『いのち』について、その理論とその実際の道を、科学の筋道で学びなさることをおすすめする。

(二)西洋の考え方と東洋の考え方

 天皇行の秘伝を語ろうとする時に、著者が欧米の友に語りたいと思うことは、東西両洋の考え方が、互いに逆になっているということである。まずこのことを注意したい。
 欧米の学術は、先ずその原理法則を、公式によって簡明に表示し、ついでそれが原理であることを事実によって論証し、しかる後に、その原理の応用として、さまざまの新現象を推定誘導し、そこから新発見と新発明とを産み出すことを常則にしている。
 近代の科学文明は、こうした筋道によって産み出された。欧米の世界的貢献がこのところにある。筆者は一個の科学の学徒として、その生涯をこうした考え方のもとに、習熟させられてきたことに対し、深甚の感謝をもつ。
 ところが東洋の考え方を見ると、正(まさ)にそれとは百八十度の逆である。東洋では、何事か前人未踏の新発見をしたたらば、これを西洋のごとくに、花やかに発表しない。その根本となる原理は『秘伝』として少数者だけに伝える。ここに東西両洋の『行き方』に相違がある。
 それで、東洋文化の方では、幾千年にわたる訓練と熟達とが、遂に人間的な『わざ』を越えて、超人的な技能を発現する場合が数々産まれてくるが、その、Technicを一般公衆に、理路整然と学的に表示することが難かしいものが多い。
 科学的考え方に鋳込まれている欧米人にとって、東洋的な奥義が一つのMystics(秘儀・秘伝)として、なかなかに把握しにくい理由がこのところにある。
 日本芸術の絵画や茶道、また能楽などに、他に追従を許さぬ幽玄味を持つ理由がこのところにあり、またその真髄を把握するのに、数々の困難のある原因もこのところにある。
 日本神道の最奥の天皇行の真理が、今日まで厳秘にされていた理由もこのところにある。日本神道の幽玄さを産み出している源泉は天皇神道の奥義の中にあるのだから、どうしても、今度は欧米の諸君にも、この天皇行の神秘を、欧米的な科学する心で握り締めてもらいたいものである。

(三)自霊拝とは何か

 いよいよ天皇行の原理について語ることにしよう。『自霊拝』の意味は、これを一言に要約すると、「自己の『たましい』を一枚の明鏡に保つこと」である、といったらよかろうと思う。
 日本国民の人間観は、自己を国家から離れて単独に存在するものとは認めない。天の側に、一本の『いのち』の『もとつ木』がある。自分はその一本の枝である。
 その枝の使命は、天の幹に流れるいのちをうけて、幹が成らせようとする花と果を、自分の枝先に成らせること。これがただ一つの自己の存在使命である。
 聖書に、『われは葡萄の樹、汝らはその枝なり』(ヨハネ伝十五章四節)とある。その聖言の『枝』になることが、日本人存在の真意である。
 こうなると、その枝に天の幹の『いのち』の樹液が流れ込み。その枝の中には、いつでも神の霊が止っている。
 ゆえに、日本では人(ひと)というのは、神の『いのち』が止まっているという意で、これを『霊(ひ)止(と)』と書く。
 自我に死に切って、神の霊が内部に止まるものでなければ、『ひと』とはいわれない。
 こういう神の霊の止まっている者のことを、昔から日本では『真(ま)人(ひと)』と申している。それは世の中には自我心の強い『うそひと』すなわち『偽りの人間』も沢山いるから、それに対して、日本本来の心をもつ人のことを『真人』というのである。
 そうした真人のなす『わざ』のことを『まこと』という。『まこと』とは『誠』である。
 『誠』とは神の『言』が、わが身の上に『成』と書く。これを聖書的にいうと、『神の言が成っている人。すなわち神の言がその人の中にIncarnateしている人という意である。
 こうした神の『まこと』が身に成っている人のことを、『ま』が『み』に転じて、『みこと』という。『すめらみこと』とは、神の言がIncarnateしている人のことをいうのである。後世に日本に漢字が入って来て以来、『天の位格についている大』という意味で、『天皇』という字をあてることになった。
 天皇とは、すなわち神の言が肉体の中に、Incarnateしている真の『霊止』という意である。
 こうした『たましい』になると、それまで見えなかった桜の木の『いのち』が美しい花となって、枝先に朝日に匂い、輝き出るように、天地の中に盈(えい)満(まん)する神の霊が、その真人の中に、輝きわたってあらわれてくる。
 この在り方を他の言葉でいうと、丁度一枚の明鏡に天の明月が、さながらにうつり出ている『すがた』に似ている。それで『うつし身』と申すのである。
 鏡自らは、ただ冷い光のないものである。しかし、光がうつると、鏡は全く見えなくなり、そこに見えるものは、ただ天の明月だけである。
 こうした天の明月と地上の一枝の明鏡との関係に、『神』と『自分』を常に保っている行法のことを、『自霊拝の行法』という。また、そういう『人』のことを『自霊拝の行者』という。
 すなわち、「われ生くるにあらず、『天の父』すなわち、『キリスト』がわがうちに生き給う」という『たましい』の生活行者が、白霊拝の行者である。
 イエスは『われを見し者は、天父を見しなり』(ヨハネ伝十四章九節)(*)と自己を紹介しておられる。そのイエスの霊の在り方と同様の在り方に成っていることを、日本では『自霊拝の行者』と中しているのである。(これは根本的な誤りである。イエス=天父ではないので、論の立て方そのものがおかしい。また、イエスには「自霊拝」や「あじまりかん」の教えもないし該当する修業方法も存在しない。全くの間違いであると知るべきであろう)
 日本神道の奥義は、ヨハネ福音書中の十四章九節の『神のことば』の通りに、自分の『たましい』を保つ行法である。
 日本という国は、その行法を幾千年の昔から、天皇御自身が身をもって実践しておられた国であった。
 聖書の方では、イエスがその霊境に堅く立ち給うて、その行法の結果として、溢れ出る神の霊力の実際を、イスラエルの民の前に顕現し給い、そして活ける天父の実在を実証されたのであったが、その行法を誰人でも再現出来る道については、公開されなかった。
 イエスが誰人にも語らず、秘めておられた『たましい』の在り方と同じ内容の行法が、不思議にも日本の天皇行として、今日まで皇統連綿として、脈々わが日本に伝えられているのである。
 日本という国は、何という不思議な『くに』であろうか。弟子ヨハネは、『イエスは神の受肉者であった!』と、声高らかにキリスト・イエスを世に紹介したが、その『神の受肉者となる秘中の秘に属する極秘の行法が、日本にそれと同質と思われる秘法が伝えられていたのであった。
 聖書ヨハネ福音書は、日本自霊拝の『顕(けん)相(そう)』にあたり、日本天皇神道は、聖書ヨハネ伝の『いのち』の密相にあたる、といってよいと思う。『顕密一体の関係』が聖書と日本天皇神道の関係であった。何という神の『ひめごと』ではないか。(聖書と日本天皇神道は全く関係がない。また、その証拠もない。聖書の記述に依拠して天皇神道を論ずること自体が完全な誤りである。以降にも同様の論述が頻出するが、すべて佐藤博士の信念を述べているだけに過ぎない。それらの記述は事実とは関係ないのである)
 
 こうした自霊拝行法により、天の活ける父神の霊が、地上の一行者の心の中に宿ると、そこにヨハネ伝におけるイエスの宣言と同様に、その鏡を見たものは、天の父神の光を見たものになるであろう。そして、それまで見えなかった『神』のすがたを、まざまざとその『人』の中に見つめることが出来るわけだ。
 断じて空漠なる観念の神ではない。鏡の中に活ける神を現実に拝し、神と面接する道である。
 『神』と『人』とは、決して懸隔してはいない。幹と枝の在り方である。相互に一体化しているのが本義である。すなわち、神人一如が宇宙の実相である。これがイエスの宗教体験であり、また日本の自霊拝の体験である。
 これまでのキリスト教は、主としてパウロの足跡に追従したゆえに、その主体が贖罪愛の一事にしぼりとられている。
 こういう欧米のキリスト教は、その在り方をさらに今一つ奥へ突き進んで、聖ヨハネがその福音書に伝える同書十四章九節のイエス体験のクライマックスまで登ってくるのが、順当な筋道であると思う。
 このクライマックスの最高峰へと欧米のキリスト教を高揚させるものが、東洋の宗教、特に日本の自霊拝の天皇行であろう。
 この面から見ると、日本の存在使命は、ただ一つのことに尽きる。すなわち、上記の全人類にかかおる霊界の秘義を明確に証詞する一点にあるといえる。
 日本の国の存在使命と、キリスト教の存在使命とは、こうした密接不離の関係につながれていたことを、欧米の先覚者が、深く納得してくれることを望む。
 因に、この自霊拝の行法の実際については、言葉の表現を越えるから、日本に来朝して自らその行法を実際的に指導を受け、その奥義に参堂されるようにすすめる。
     ×      ×      ×
 なお一言しておきたいことは、日本で神を霊覚する方法は、物心一如の原理に立つゆえに、霊のことは『物』の形の在り方であらわされて、決して欧米のごとき観念や、概念を用いない。
 それで自霊拝の心の在り方も、これを伝えるのに、観念を用いず、器物の鏡をもって表示する。鏡を授けて、『この鏡を見ること、われを見るごとくせよ』とのべられておられるのである。
 『おのが心を一面の鏡に見立て、その鏡の中に神を宿らせ申す。自分の心の中に、活ける神がつねに輝いて拝されるように、心を保持しておれ!』という貴い神意の伝授である。
 今日もなおいたるところの神社に一面の明鏡が供えられてあるのは、この神意の表示であることがわかる。

* ヨハネ伝第十四章九節「わたしを見た者は、父を見たのである」という一節については、拙著『アジマリカンの降臨』の「第十三章 イエス・キリストとの対決」において、「誤りである」と批判した。だが、佐藤博士のヨハネ伝第十四章九節に関する解釈は全く正しい。つまり、適切なものである。
 斎藤の批判は、「肉の身のイエスを通して父なる神を見よ」というイエスの言葉に無理があるという判断から出たものである。ただし、イエスのこの言葉には情状酌量の余地もある。なぜならば、日本に秘められていた天皇行、すなわち、「自霊拝」と「あじまりかん」をイエスが自身の教えとして説く状況ではなかったからである。これは、神の経綸上、許されてはいなかったことなのであり、当時の人々はイエスを通じてしか神の存在を感じる方法が与えられていなかったのだとも考えられる。天皇行はイエスの死後、日本建国時に、アメノヒボコによって、日本に仕組まれることになっていたからである。
 天皇行が存在する国である日本は真の神の国であり、イエスも肉の身では行きたくても行けなかった場所なのである。キリスト教などの一神教は極めて不完全で非科学的な宗教である。なぜかと言えば、そこには観念の神しか存在しないからだ。ところが、天皇行が存在する日本には実体としての神(造化三神=根源神=最高神=宇宙創造神=実神)が縄文時代より一貫して降臨していたからである。そのことは、おいおい歴史的な事実として証明されるであろうというのが、斎藤の予言である。

参考:日本とはどんな国?:天皇行法(天皇神道)
   日本とはどんな国?:天皇行の核心

天皇行の神髄 完
 
 

 

 
 
 
 

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