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機関誌第34号を発行しました

機関誌第33号を発行しました/斎藤 敏一
作成:2023年6月11日、最終更新:2023年6月20日
 

◆機関誌第34号を発行しました
 機関誌『あじまりかん通信』の第34号を発行しました。今号は大増頁(+10頁)で、以下のような内容となっています。
 「建国編」の最終回(第四弾)となります。前回の“弥勒世完成までの思考実験 (1)”を受けて、今号は思考実験の後半となります。
 最近は「アセンション」というキーワードにしばしば出会います。筆者は「アセンションではなく神化が起きる」という意見です。アセンションについて、色々と調べてみると、次のような派閥があるということが分かります。破局派、漸進派、開示派、招待派、というのが筆者の分類です。
 筆者は招待派ですが、宇宙に向かって意識が開いており、宇宙人やUFO関連の情報がたくさん飛び込んできました。筆者の意識状態を反映して、頁がどんどん膨らんでしまいました。とにかく宇宙は面白いです。以下巻頭言を引用します。

巻頭言 — 〝エイリアンインタビュー〟の衝撃

この世界で何が起こっているかを知ろうと、小生は毎日ネットサーフィンしている。その最中に、宇宙人絡みでとんでもない本に出会ってしまった。その本の内容が余りにも衝撃的だったので、今までとは同じ気分ではいられなくなったくらいだ。その本の名は『エイリアンインタビュー』。同書は、1947年7月に起きた「ロズウェル事件」に関するものだ。UFOファンならば「ロズウェル」はご存じだろう。合衆国ニューメキシコ州・ロズウェルで起きたUFO墜落事件の真相を報告する作品である。
同書の中身については連載記事に譲るが、簡単に言うと「UFO墜落事故で生き残った異星人がインタビューに応えて語った話」なのだ。同書の存在を知らなかった方であれば、「エエーッ! そんなこと本当なのか!!」と思わず叫んでしまうようなことが沢山語られている。
地球が牢獄惑星であること。輪廻転生で記憶がなくなるのは、人類をいつまでも牢獄に留まらせるために、意図的に前世も含めた記憶が消去されるからであること。その昔に宇宙戦争があって、古い地球の支配者(=旧帝国)はドメイン勢力(本文参照)によって滅ばされたが、旧勢力の記憶消去装置は破壊できてないので、人間は輪廻転生の度に強制的に記憶喪失になること、などなどである。
荒唐無稽だと断じて『エイリアンインタビュー』を読まなかったことにしたい。だが、古神道的な真理「人間も人類も永遠の生命で神と等しい存在(=IS―BE、意味は「存在し○○になる」)である」とも語っている。一概に否定できないところが難物なのである。この「IS―BE」とは、山蔭神道などの古神道で説かれる「直霊(なおひ)」に相当する概念である。だから、簡単に否定できないので困っているのだ。しばらくの間、『エイリアンインタビュー』の内容で悩む日が続くことだろうが、アジマリカンでひっくり返そうと思う。


 今号の内容が膨らんだのは、YouTubeで不思議なUFO「神世三剣UFO」を見たことに端を発しています。それとほぼ同時に、ロズウェル事件の生き残り異星人のことを書いた本『エイリアンインタビュー』を読んだことも内容に反映されています。紙の本としての『エイリアンインタビュー』は、現在はほぼ入手不可能になっています。多くの人が同署に注目しており、確かに衝撃的でした。

 第34号は以下のような内容です。詳細は会員になっていただくことで楽しむことができます。

【目次】
 神奈川県開成町あじさい
 あじまりかん人物評伝(61)マチルダ・オードネル・マックエルロイ(1924―2007)
 巻頭言 — 〝エイリアンインタビュー〟の衝撃1
 連載 あじまりかんの渦 建国編3
 第三四章 弥勒世完成までの思考実験 (2)3
  東京環状8号線上空に神世三剣が出現した 3
  弥勒世の実現には宇宙艦隊が関わってくる! 7
  『宇宙からの黙示録』に予言された時がやって来た 9
  何種類もあるアセンションの考え方 11
  宇宙連合との国交を開始するには 15
  アセンションではなく〝神化〟である 17
  ロズウェル事件のエイリアンインタビュー 20
  アジマリカンは波動兵器である 24
  異星人エアルが接触してきた⁈ 26
  『エイリアンインタビュー』をどこまで信用すればよいのか⁈ 28
  地球人類が付き合うべき宇宙勢力とは⁈ 33
  普通人には宇宙人のことは分からない 34
  普通人のためのアジマリカン 35
 神道新教本庁訪問記③38
  おやしろ様とアジマリカンの関係 38
 永遠の生命を生きる40
  (1)母の臨死体験を語る 40
 編集後記42
 あじまりかん人物評伝(62)木内鶴彦(1954―)43
 深大寺(東京都調布市深大寺元町)44

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■電話 042-712-3004

 

 

 
 
 
 

第一章 私のあじまりかん体験 [Chapter 1 My “Ajimarikan” experiences]

◆「アジマリカン」と出会った頃の私的事情 [My private condition of encountering “Ajimarikan”]

 六十歳になった時、今まで在籍していたソフト会社を定年退職し、フリーとなった。フリーとなっても、ソフト開発の仕事はそのまま継続した。だが、年齢の問題が少しずつ大きくなってきた。自分のスキルが鈍ったという感覚はあまりなく、「これならまだまだやれる」と思い込んでいた。
 When I became 60 years old, I retired from a registered software company so far and became free. The work of the software development was just continued even if I became free. But a problem of the age became slightly big. I took the sense that own skill did not become dull “to be able to do this still more”.

 還暦を過ぎて年金をもらうようになったプログラマを使い続ける、という発想はソフトウェア業界にはないようである。アメリカのソフトウェア業界では、高齢プログラマの活躍の場所があるらしいが、日本の業界ではプログラマの経験値が全く考慮されない。定年を過ぎたシステムエンジニアは採用しないということになっているように見える。これは日本のソフトウェア開発業界の悪しき慣例である。
 The software industry does not seem to have the idea to continue employing the programmer who passed the sixtieth birthday and came to get a pension. In the software industry of the United States, there seems to be a place of the achievement of the old programmer, but the experience level of the programmer is not considered at all in the Japanese industry. It seems that the software company does not adopt system engineer of retirement age. This is bad custom of the software development industry of Japan.

 定年を言い渡されてフリーになった時点で、今日のような事態が来ることを、ある程度予想はしていた。ちょうどそういう時に佐藤定吉著『日本とはどんな国』(たま出版、1979年)を読む機会があった。恐らく学生時代に購入していた同著は、読まれることもなく、長期間屋根裏に眠っていたのだが、ようやく日の目を見たのである。私は同著を読んで、「アジマリカン」という言葉を学生時代から知っていたことも思い出した。当時の友人が「アジマリカン」を唱えていた、その調子までよみがえった。私は早速「アジマリカン」を念ずるようになり、ソフト開発の現場で「アジマリカン」を念ずる「アジマリカン行者」となったのである。
 A retirement age was announced and expected that a situation like today came to some extent when I became free. There was just such an opportunity to sometimes read “What kind of country is Japan?” (Teikichi Sato, Tama shuppan, 1979). Probably the book which I purchased in school days lied in the garret for a long term without being read but was finally recognized by me. I read the work and remembered that I knew the word “Ajimarikan” from school days. A friend at the time advocated “Ajimarikan”, remembered up to the tune of it. I came to pray for “Ajimarikan” promptly, and became an “Ajimarikan ascetic” praying “Ajimarikan” on the site of the software development.

 そもそも、私は二十代頃からずっと神さま事が好きな人間で、学生時代には宗教探求にのめりこむような状態だった。だが、社会人になってからは神さま事からは遠ざかっていた(詳細は拙著『アジマリカンの降臨』を参照)。早い段階で既成の宗教というものに対する興味も失せていたからだ。神さま(=宗教)関連の本も大部分は処分してしまって、主に歴史関連の書物(特に日本古代史関連)を読むことが、数少ない楽しみのひとつになっていたのである。
 In the first place, I was in condition to be absorbed in religions search, I liked Kami things all the time from around 20 generations for school days. But, after I became a member of society, I went away from Kami things (For details, see my book “The Advent of Ajimarikan”). This is because the interest for what’s called established religion faded away at an early stage. Most of the Kami(= religion)-related books had been disposed, and it was in one of the pleasure that there were few that I read books about history (the Japanese ancient history in particular) mainly.

◆神=「アジマリカン」で私に飛び込んできたモノ [Kami = the entity jumped in me with “Ajimarikan”]

 大神呪「アジマリカン」と出会った私は、その当初から日々「アジマリカン」を念ずる生活に入っていた。「アジマリカン」をえて最初に驚いたのは、今まで感じたことのない霊的な波動が、「アジマリカン」の音に乗って私の身体に入ってきたことである。その時、「何だこれは! これが神というものか……」と思っていた。それまでは、神を念じたり、心の中の神に向かって祈ったりするようなことはあっても、「アジマリカン」を念じた時のような神の波動は感じたことがなかった。だから、神の波動が自分のにサッと入ってきた時には、大いに驚いたのである。
 I who met the great Kami’s spell “Ajimarikan” began the life to pray “Ajimarikan” every day from the first. It is that the spiritual wave that I have not felt, entered my body to a sound of “Ajimarikan” so far that was surprised to advocate “Ajimarikan” first. Then, “What’s this! This must be so to say Kami….”, I thought. Even if I prayed for Kami, even if I prayed towards Kami in the heart, and the wave of Kami when I prayed for “Ajimarikan” has not been felt till then. Therefore, I was surprised very much when the wave of Kami entered own body quickly.

 私はいわゆる霊媒体質(幽的なものを感じる体質)ではないので、霊や神の世界が見えたり、そういう声が聞こえたりといったことはなかった。だから、神社に出かけて神霊の姿を見たり、神や霊のお告げを聞いたり、幽霊を見たり、といった体験は皆無である。例外的に霊的な内容の明晰夢を見ることがあったぐらいである。夢の中ではキリストらしき霊(イエスではなく太陽神霊)が出てきたり、宇宙人が出てきたり、百合の花の妖精が出てきたり、前世の一コマらしい夢を見ることもあった。
 As I was not so-called medium constitution (constitution to feel the thing which is astral), I have not seen the world of soul and Kami, and I have not heard such a voice. Therefore, I have no experience to see ghosts or kamis when I went to the Shinto shrine. I might have the lucid dream of spiritual contents exceptionally. The soul like Christ (not Jesus the Sun divine spirit) came out in the dream, and an alien came out, and the fairy of the flower of the lily came out and might have dream that seemed to be a scene in previous life.

 学生時代は時間があった(暇だった)ので、専攻している物理学の勉強よりも新興宗教の教祖たちの著作内容の方に興味を持った。ヨガの瞑想をしたり、座禅を組んだり、新宗教と呼ばれる「生長の家」(以降「S会」)の神想観や「白光真宏会」(以降「B会」)の統一、神智学系の「竜王会」の瞑想といった各種の修行は習慣的に行っていた。もともとそういう神秘系の修行は好きだったので自然に実践していたのだ。
 I was interested toward the writing contents of the founders of the new religion than the physical study that I majored in in one of which had time for the school days (I was free). I did meditation of the yoga and made Zen meditation and performed the Shinsokan of “Seicho-no-ie” (“S-kai”) and the Touitsu of “Byakko-shinko-kai” (“B-kai”) of called the new religion, various ascetic practices such as the meditation of Theosophy “Ryuo-kai” habitually. Originally, I practiced them naturally as I liked the ascetic practices of such a mystery area.

 神社で祈ったり瞑想したりする目的は、仏教でいう「三昧」、ヨガの「サマーディ」、B会の五井昌久師のように神人合一の境地に到達することだった。だが、その願いは学生時代には、あと一歩というところで叶えられなかった。社会人になってからも、私の宗教的な境地がはかばかしく進展するようなことはなかったのである。
 The purpose that prayed in a Shinto shrine and meditated was that “Sanmai” of the Buddhism and “Samāj” of the yoga arrived at the state of Shinjin-gouitsu (= unity with Kami) like Rev. Masahisa Goi of B-kai. But the wish was not granted in a place of another one step for school days. My religious state did not progress remarkably even after becoming a member of society.

 私が還暦を過ぎた頃、その「あと一歩」は突然叶えられた。佐藤定吉著『日本とはどんな国』に啓発され、大神呪「アジマリカン」を真剣に念じた時のことである。その時私に訪れた啓明は、仏教で言う三昧や大悟、ヨガのサマーディとは明らかに異なるもので、むしろ日本的な体験だった。
 When I was over the sixtieth birthday, “another one step” was granted suddenly. I was enlightened by Teikichi Sato’s “What kind of country is Japan?” and it got up when I thought seriously the great Kami’s spell “Ajimarikan”. The thing which visited me was clearly different from Sanmai or great enlightenment of the Buddhism or Samāj of the yoga and was a rather Japanese-style experience.

◆私の「アジマリカン」体験の様相 [The aspect of my “Ajimarikan” experience]

 それは、「ひょっとしたら、これが神かも知れない」というものだった。瞑想的な行は、大学を卒業後も何となく続けていたが、そのような神秘体験はなかったのだ。私を訪れた神かも知れないものとは、一種の波動的な実体であった。不思議な波動が私の中に飛び込んできたのである。最初に大きな驚きと戦慄があった。
 As for it, “this might be Kami by any chance”. The meditating practice was continued after the graduation of university, but there was not such experience of mystical occurrences. It was a kind of wave-like substance that it might be Kami (= God) which visited me. A mysterious wave jumped in me. At first there were a big surprise and a shiver.

 その時始めて、私は「これが神である」と納得する何かを掴(つか)んだと思ったのである。その体験は一種の悟りなのかも知れないが、いかにも悟りを開いた「宇宙の秘密の一切を知り得た」というような状態とは違っていた。一番近いのは「宇宙と一つになった」という感覚である。何か分かるようになったとか、特別な能力を授かったというようなことではない。ただ、宇宙との一体感だけが際だっていた。自分の身体の境界が失せた感じがしたのである。それまでも宇宙との一体感はあったのだが、「神」と感じる何かが私の中に入った点において、従来の意識状態とは明らかに違っており、「これは一大事だ」と思ったのである。
 Only then did I think I grasped something that convince me “this is Kami (not equal to God)”. The experience may be a kind of Buddhahood, but it was different from the enlightened state of “knowing all the secrets of the universe”. The closest thing is the feeling of “becoming one with the universe.” It’s not like I’ve learned something, or I’ve been given a special ability. However, only the sense of unity with the universe was outstanding. I felt like I had lost the boundaries of my body. There was a sense of unity with the universe until then, but it was clearly different from the conventional state of consciousness in that something that felt “Kami” entered me, “this is notably important”, I thought.

 私には一種の霊的感受性はあるけれども、皮膚感覚を延長したかのようなものである。霊の姿は見えないし、声も聞こえない。他人の心を読んだり、遠くの物を透視したり、物品を引き寄せたり、霊界を訪問して遊び回るといった能力も体験もない。だが、霊や神の存在だけは実体として感知できるのである。その種の見えない実体の感じ方とは、その存在と一体になって「霊が目の前にいる」、「霊が自分の中に入っている」という感覚なのだ。
 I have a kind of spiritual sensitivity, but it’s like an extension of my skin sensation. I can’t see the ghosts and I can’t hear their voice. I have neither the ability nor the experience of reading the thoughts of others, seeing through distant objects, attracting goods, visiting the spirit world and playing around. However, only the existence of spirits and kami’s can be perceived as an entity. The way of feeling such invisible entities is the feeling that “the spirit is in front of me” and “the spirit is inside me” being united with its existence.

 私自身の霊的感覚とそれに関連する体験について、このように詳しく書くのは初めてのことだ。なぜこのようなことを書いたのかと言えば、大神呪「アジマリカン」で私の身に起きた体験が、それ以前の数十年では全くなかった体験だったからだ。私の「アジマリカン体験」は、良い意味で私の予想を裏切るような体験であった。「これはそのものズバリの神だ」という直観があり、とにかくビックリしたのである。ここからの文章には「直観」という言葉が数多く登場するが、それらは私の直接認識であるという意味を持つ。その点にご注意の上、読み進んでいただきたい。
 This is the first time I have written this detail about my own spiritual sensations and related experiences. The reason I wrote this is because the experience I had with the great Kami’s spell “Ajimarikan” was something I hadn’t had in the decades before. My “Ajimarikan experience” was, in a good way, an experience that betrayed my expectations. I was surprised at the intuition that “this is the kami of Zubari.” Many words “intuition” appear in the text from here, but they mean that they are my direct recognition. Please be aware of this point before proceeding.

 旧約聖書とアジマリカンでは、以下のように神認識のあり方が大きく異なっている。
 The Old Testament and Ajimarikan differ greatly in the way of recognizing God/Kami as follows.

旧約聖書 :神        → 預言者(外流、間接的、預言者だけ交流可能)
アジマリカン:神(コトバ)→ 斎藤 (内流、直接的、誰でも交流可能)
The Old Testament: God    prophets (Outer flowing, indirect, Only prophets can interact)
Ajimarikan  : Kami(= a word) Saito (Inner flowing, direct, Everyone can interact)

 旧約聖書では「外流」と言い、外なる神の言葉が預言者に伝えられる様式を取っている。一方、斎藤の場合は「アジマリカン」という言葉が自分の中で直接響き渡る。神からのメッセージは「内流」と呼ばれ、自分の中で認識される。これが決定的に異なるところである。旧約聖書の時代と現代では全く伝達様式が異なるのだが、この違いは根本的なものであって、そもそも神なる実体が全く別物であるということを意味している。一体どちらの神が本物なのか?
 In the Old Testament, it is called “Outer flowing”, and the word of the outer god is conveyed to the prophets. On the other hand, in the case of Saito, the word “Ajimarikan” echoes directly within me. The message from Kami is called “Inner flowing” and is recognized within me. This is a decisive difference. The mode of communication is completely different between the Old Testament era and the present day (especially in Japan), but this difference is fundamental and means that the divine entity is completely different in the first place. Which god is the real one?

 旧約聖書の神は外なる神であって、預言者一人としか交流することができない。一方、アジマリカンの神は内なる神であるから、誰でも交流可能である。「アジマリカンの神こそが本当の神である」と宣言したいところであるが、しばし保留しよう。
 The Old Testament God is an outer god and can only interact with one prophet. On the other hand, since the god of Ajimarikan is an inner kami, anyone can interact with it. I would like to declare that “the Kami of Ajimarikan is the true God”, but let’s put it on hold for a while.

◆「アジマリカン」は活き物? 探求の旅へ…… [Is “Ajimarikan” a living thing? To the quest journey…]

 この「アジマリカン」という呪言には極めて不思議な性質がある。それは、身体に入ってきたり、身体から出ていったりする実体を伴っているという性質だ。「アジマリカン」が身体に入っている状態とは、何か活き物(=霊的な実体)が腹中に入っているという感覚を伴うことだ。この種の感覚については、私だけでなく、私の講演を聴きに来た方の一人も、「何かお腹がほんわりと暖かい」という体験を語っているから、あり得ることかも知れない。
 This spell “Ajimarikan” has a very mysterious nature. It has the property of being accompanied by an entity that enters and exits the body. The state in which “Ajimarikan” is in the body is accompanied by the feeling that something living (= spiritual entity) is in the body. This kind of sensation may be possible because not only I but one of the people who came to listen to my lecture talked about the experience of “something warm exists in my body”.

 さらに不思議なのは、私の腹中に入った「アジマリカン」がそのまま留まっているという事実である。そういう状態になると、「アジマリカン」なる実体が身体になじんで、最終的に一つになってしまうということだ。「アジマリカン」はそういう活き物的な不思議な実体なのである。
 Even more mysterious is the fact that the “Ajimarikan” in my body remains intact. In such a state, the entity “Ajimarikan” becomes familiar with the body and eventually becomes one. “Ajimarikan” is such a living and mysterious entity.

 これはとても不思議な感覚なのだが、常時「アジマリカン」という音が私の体内(=腹の中)に成っていることを感じる。この「成っている」は「鳴っている」と同義である。
 私は、この自分の腹中で鳴っている存在を「神」と呼んでいる。この「神」とは、いったいどういう神なのであろうか? その答が得られれば、本論の目的は果たされる。
 This is a very strange feeling, but I always feel that the sound of “Ajimarikan” is existing in my body (= in my stomach). This “is existing in my body” is same pronunciation with “is ringing” (of course it is “naru” in Japanese).
 I call this ringing entity in my belly “Kami”. What kind of god is this “Kami”? If the answer is obtained, the purpose of this paper will be fulfilled.

 この感じ方は、私の個人的な突拍子もない感じ方のように思われるかも知れない。だが、そのように感じているのだから、感ずるままに書くしかない。私の中の生き物のような存在=アジマリカンとは、このように前代未聞の特性を持つコトバなのである。今までに、アジマリカンの解明を試みた人は何人もおられたようだが、その意味は未解明のままである。アジマリカンの伝承者である山蔭神道の山蔭基央師(故人)も、「この言葉は古伝であって意味は不明である。さまざまに解釈されているが、いずれも正鵠(せいこく)を得ているとは思われない」と語っている(『神道の神秘』春秋社、2000年)。
 This feeling may seem like my personal outrageous feeling. However, because I feel that way, I have no choice but to write as I feel. Being like a creature in me = Ajimarikan is a Kotoba with such unprecedented characteristics. So far, it seems that many people have tried to elucidate Ajimarikan, but its meaning remains unclear. Rev. Motohisa Yamakage (deceased) of Yamakage Shinto, the successor of Ajimarikan also said, “This word is an ancient tradition, and its meaning is unknown. I think that they are missing the point of it (“The Mystery of Shinto” Shunjusha Publishing Co., Ltd., 2000).

 しかしながら、山蔭基央師は著書『一霊四魂』(霞ヶ関書房、1973年)に、「アヂマリカムとは絶対の神の権能を示すコトタマであると共に、神を現す最大の方法であり、神の威神力を称賛し、神そのままを発現する言葉である」と述べていた。その間27年、山蔭師に、アヂマリカムに対する認識が変わるような出来事があったのだろうか。
 However, Rev. Motohisa Yamakage wrote in his book “Ichirei-Shikon” (Kasumigaseki Shobo, 1973) that “Ajimarikamu is a kototama that shows the absolute authority of Kami and is the greatest way to reveal Kami, and the power of Kami. It is a word that praises the power of Kami and expresses Kami as it is”. During that time, in 27 years, did Rev. Yamakage have any event that changed his perception of Ajimarikan?

 このように、アジマリカンとは伝承主体の山蔭神道でも意味が分からないコトタマなのだ。それにも関わらず、「これを唱えることによって、さまざまな霊験があったという話は枚挙につきない。山蔭神道では、諸霊を供養する時や、自霊の活性化を祈念する時や、あらゆる時にこの神呪を唱えるのである。これを百万遍奉唱すれば、おのずから神通力を得るともされている」(『神道の神秘』)と報告している。
 In this way, Ajimarikan is a kototama which meaning is unknown even in the traditional Yamakage Shinto. Nevertheless, “I can’t enumerate the stories that there were various spiritual tests by chanting this. In Yamakage Shinto, when offering spirits, praying for the activation of one’s own spirit, and at any time. It is said that if you chant this divine spell, you will naturally gain mythical power if you chant it a million times (“The Mystery of Shinto”).

 大神呪「アジマリカン」とは一体どういうコトタマなのであろうか?
『神道の神秘』の山蔭師の報告にいたく刺激を受けた私は、何とか大神呪「アジマリカン」の正体を突き止めたいという思いから、探求を開始したのである。
 What kind of kototama is the great Kami’s spell “Ajimarikan”?
 Inspired by the report of Master Yamakage in “The Mystery of Shinto”, I started my quest because I wanted to find out the true identity of the great Kami’s spell “Ajimarikan”.