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機関誌第20号を発行しました

機関誌第20号を発行しました/斎藤 敏一
作成:2021年3月1日、最終更新:2021年3月1日
 

◆機関誌第20号を発行しました
 機関誌『あじまりかん通信』の第20号を発行しました。以下のような内容となっています。

【目次】
アジマリカン人物評伝(33) 饒速日尊(三世紀頃)
巻頭言 — ポストコロナと「あじまりかん」1
連載 あじまりかんの渦 みろく編3
第二十章 みろく世の科学――日本は結びの国だった3
 ◆改めて大神呪「アジマリカン」の解釈に挑戦 3
 ◆天津渦渦志八繋之神結とは一体何か?! 7
 ◆大神呪「アジマリカン」=天津渦渦志八繋之神結である 10
 ◆天津渦渦志八繋大神は結びの神である 12
 ◆結びの具体例 14
 ◆どうして『ヒボコ編』と『ヤコブ編』を書いたのか 18
 ◆ヤマト建国は「結び」によって成った 24
 ◆日本民族は「結び」の民である 27
あじまりかんQ&A 29
 Q コロナ感染を完全に防ぐことはできるのですか?
随想 あじまりかんの肝30
 番外編:相模国と徐福
編集後記32
アジマリカン人物評伝(34) 推古天皇(554年-628年)

【お問い合わせ】
あじまりかん友の会まで
〒252-0333
神奈川県相模原市南区東大沼 4-11-10
  あじまりかん友の会  機関誌係
■メール tomonokai@ajimarikan.com
■電話 042-712-3004

 

 

 
 
 
 

「あじまりかん」と先祖供養

ご先祖を供養するとは?

霊的観点:「あじまりかん」と先祖供養/斎藤 敏一

作成:2018年3月16日、最終更新日:2018年5月5日


 あじまりかん通信第二号に「神仏の祀り方と先祖供養について」という記事を書きました。それを転載すると同時に、情報を補足したいと思います。
      ×      ×      ×      ×
 神仏の祀り方を検討するためには、先ず「あじまりかん」の霊的な側面について概観を把握する必要があります
 「あじまりかん」を唱える時には、見えない世界、すなわち、神や霊の世界(神霊界、心霊界)と交渉を持つということを意味しています。次に示すのは、拙著『あじまりかんの法則』に掲載した「三千大千世界とあじまりかん」の図です。
 この図は、あじまりかん修行者が「あじまりかん」を唱える時には、創造神の世界から三次元宇宙まで「あじまりかんの言霊」が鳴り響くということを表しています。つまり、「あじまりかん」の音は単なる音ではなく、目に見えない世界を含めて響き渡るものだという事実を意味しています。
 ですから、「あじまりかん」を唱えると必然的に神や霊の世界と交渉することになるのです。そのことを先ず押さえておく必要があります。
 次に大切なのは、人間や人間以外の生き物の本質は霊であるということです。「霊主体従」などという言葉がありますが、これは霊的なものが本質であり霊が形となって現れているものが体であるという意味です。
 特に重要なのは、生きている人間(貴方であり彼や彼女である存在)は肉体である前に霊であるという事実です。この事実をどれだけ深く実感できるがが、とても重要なのです。また、死んでいる人間にも霊という実体が存在しており、単に思い出の中の人物ではないということです。
 よく、「亡くなった○○はみんなの記憶の中で生き続ける」などと表現しますが、確かにそれはそうなのですが、ちゃんと霊的な実体が存在し続けていることが分からないと、霊の影響で色々なこと(善いこと悪いこと)が起きるということが理解できないわけです。
 生きている人間に最も影響を与えるのは、実際のところ、生きている人間の想い(想念)です。生きている人間の想いを「生き霊」と呼びます。生き霊にも善いものと悪いものがありますが、悪い方には注意する必要があります。これは非常に強いもので、生き霊のせいで病気になったり怪我をしたりすることもあります。これは脅しているわけでも何でもなく、事実として人間の想念が他人に対して善悪こもごもの影響を与えているということを認識しましょうということです。
 そのような霊的な影響が自分に降りかかってきた場合、「これは霊的な原因で起こっている」と認識できれば、適切な対処が可能となります。普通の人は、なかなかそのような認識ができないので、色々不都合なことが起こってきても回避行動を起こせないわけです。それとは逆に、悪いことが起きた時に、何でもかんでも霊のせいにするというのも考え物ですが……。

神仏の祀り方について

 神仏をお祀りするとはどういうことか? これは分かるようで分からないことです。その最大の理由は、神仏が目に見えない存在であるからということです。
 神仏と言わずとも「霊」と言えば分るでしょうか? 霊は目に見えない存在です。
 さらに、難しい問題があります。
 神仏と一言で言ってしまえば、神も仏も一緒(いっしょ)くたになってしまいます。神と仏はどこが違うのでしょうか? 神棚と仏壇の違いとは一体何なのでしょうか?
 以上のような問題を、一個づつ順番に整理していきましょう。

◎神を神棚に祀る

・神とは
 「神」とは、肉体の人間から見て上位の存在であり、指導原理(=ガイド)と呼ぶべき存在です。
 守護霊、守護神(正守護神、副守護神の区別があります)と呼ばれる神霊です。産土神、神社のご祭神も含まれます。
 これらの神霊は、必要があれば、家の神棚にお祀りすることができます。

・神棚の設置方法

 自分の家で、これらの神さまを意識してお祀りするには、適切な場所に神棚を設置することになります。この場合は、神棚の中に適切なご神体をお祀りすることが一般的です。ご神体とは、神社からいただけるお札や、自然石、御幣、クリスタルや宝石の類などの神霊が寄り付く物実(ものざね)、依代のことです。
 実際の祀り方の詳細については、機会を改めてお話しすることになります。

我が家の神棚(榊は作り物だが問題はない)

◎仏を仏壇に祀る

・仏とは
 一般に「仏様」と言えば死者=ご先祖様を意味しています。「仏様」とは我々日本人の習慣的な呼び方で、正しくはご先祖様です。
 ただし「仏様」には「ご本尊」という意味があります。ご本尊とは阿弥陀仏、不動明王、大日如来、南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏などの信じる対象のことです。ご先祖とご本尊をちゃんと区別する必要があります。
 ご本尊の場合、魂が入っていれば、拝む人を守って下さいますが、魂が入っていない場合は効果は期待できないでしょう。他家の仏壇を見た訳ではないのでよく分かりませんが、我が家の場合、南無阿弥陀仏なので阿弥陀仏の西方浄土からの光が届くようですが、あまり明るくはありません。ご先祖の霊から出ている光の方が明るく元気があるように感じます。

・仏壇には霊が集まってくる
 これはあくまでも一般的な話ですが、仏壇にはご本尊・ご先祖の二種類の霊的存在をお祀りしているわけです。浄土真宗のような宗派では(南無)阿弥陀仏というご本尊しか祀らない(位牌は置かない)形式もありますが、霊的にはご先祖とご本尊の二種類が出てきます。実体的には主としてご先祖が出てきますので、注意が必要です。
 とにかく無数の先祖や縁者の霊が仏壇には登場します。そのことを先ず感じるべきです。仮に感じられなくても、観じる(イメージする)ことが必要となります。

我が家の仏壇(上が人間用、下はペット用)

・迷っている霊を供養する
 ここから、いよいよ本題に入っていきます。
 いわゆる「迷っている霊」、低い幽界から上の世界に上がっていけない霊がいる場合、自然の流れとして子孫に頼ったり、マイナスのエネルギーが子孫に悪影響を与えたりすることがあります。このような場合、ご先祖や有縁の霊が結果的に子孫の足を引っ張ることになります。
 これは、悪意から子孫に祟るといったことではなく、子孫に頼ってしまい、供養してほしい、つまり、上の世界に上げてほしいので、念が障りとなってしまうのです。頼られる子孫の方は、ご先祖のカルマをも浄化するという責任を負ってしまうのです。
 頼られる子孫の側に霊力があれば、問題なく浄まってしまうのですが、霊力がない場合いつまで経っても、訳の分からない病気になったりして何をやっても治らないといった現象になります。
 ご先祖に頼られている場合には、供養しなければなりませんが、これにはコツがあります。実際に霊を面前に呼び出して対面することが大切です。そうしないと、こちらからの供養の念が届きません。ちゃんと対面できさえすれば、供養の念は確実に届きます。どれだけ霊の存在を実感できるかが供養のポイントです。

◎「あじまりかん」で霊は昇天する

 霊と対面できているという前提で、宇宙一効果のある祈り言葉が「あじまりかん」です。親神さまが保証されていますが、必ず救っていただけます。
 「あじまりかん」で不成仏霊は必ず昇天します。
 その結果、今まで子孫を頼っていたご先祖が本当の意味での守護神となって下さいます。

 不成仏霊の問題を抱えている(かも知れない)と思われる方は、この記事で説明した方法で真剣に「あじまりかん」を唱えて下さい。
 いつまで唱えるかは自然に分かります。不成仏霊が成仏(神上がり)された場合は、仏壇の中が何とはなしに明るく暖かくなったように感じられ、ふわっとした感じの気が流れ出ます。例えば、お線香の煙が自分の方にスーッと流れてきたら、ご先祖の感謝の念が出ているということになります。霊風が流れ出すこともあります。その感じは何となく分かりますので、真剣に行じて下さい。必ず結果が出ます。
 付け加えますが、ご先祖への感謝の念を示すために、きれいなお水やお菓子・ご飯をさしあげて下さい。このように感謝を形に表すことで、霊的な存在に対して供養の念がしっかり届くことになります。

補足:ご飯などはすぐに下げて、後からいただくというのが通例です。筆者の
   実家ではそのようにしていました。施餓鬼などの自家以外の霊への
   供養の場合などを除いて、ご飯やお菓子は捨てずにいただきましょう。
   また、毎日ご飯を備えるという習慣がない場合は、しなくても可です。
   先祖を敬う気持ちが第一で、何をお供えするかなどの形式は気持ちが
   伴っていればOKですが、気持ちが伴わない場合はしなくてもよいです。
   我が家では普通はお線香だけです。


 我が家の例ですが、仏壇で「あじまりかん」を唱えると、ご先祖がズラリと参集され、感謝と喜びの念がウワーッと流れてきます。このような体験は、「あじまりかん」を知る以前にはなかったことです。毎日「あじまりかん」を仏壇で唱えましょう。あるいは、普段からご先祖を意識して「あじまりかん」を唱えましょう。

【参考資料】
「あじまりかん」は合気道と同じ

「あじまりかん」は合気道と同じ

神国日本(横山大観)

本当の話:「あじまりかん」は合気道と同じ/斎藤 敏一

作成:2018年3月13日、最終更新日:2018年5月5日


◎山蔭基央師と佐藤定吉博士のライフワークを継承する

 私は2014年頃、佐藤定吉博士の『日本とはどんな国』を丁寧に読み直すという機会を持ちました。そこには、「あじまりかん」の秘密の一端が書かれていたのです。
 それから二年余りの間「あじまりかん」を唱え続けました。その間、「あじまりかん」の言霊が常に私を導いてくれました。「あじまりかん」よりインスピレーションを与えられ、遂に二冊のあじまりかんの本が完成したのです。「あじまりかん」そのものが私に本を書かせたとしか言いようのない出来事が起こったのです。
 佐藤博士の『日本とはどんな国』の以下の一節が私に「あじまりかんは神の言霊である」という確信を与えました。

「その(「あじまりかん」を唱えている時の)全体から来る霊的波長は、
 
どうしても『神と人』とが一如になり、『神』が人の中から顕現する時の
 霊の響きのように受け取られる」

 佐藤博士はこの「神」の正体について一言も語りません。だがそれは、佐藤博士が山蔭神道の説く大元霊=造化三神のことを知らずして、昭和三十年代に亡くなられたためです。
 当時はまだ、山蔭基央師の著作群が存在していませんでした。だから、古神道的な神の認識方法が手近な情報として得られなかったのです。
 斎藤は、処女作『アジマリカンの降臨』の執筆を通じて、この『神』が大元霊であることを感得できました
 「あじまりかん」の言霊の本義=実体は大元霊なのです。すなわち、「あじまりかん」という言葉には本体霊が存在しており、その本体霊とは大元霊=造化三神=宇宙創造神=最高神=人類共通の神なのです。

 まさに「あじまりかん」は大元霊のコトタマなので、唱えると大元霊が(波動として)降臨するのです。山蔭神道が二千年の間伝承してきた「あじまりかん」は大元霊の言霊であったということなのです。
 「あじまりかん」は大元霊の言霊(言語的顕現)です。だからこそ、「あじまりかん」を唱えれば、全人類が宗教や信仰に関わらず無条件に救われるのです。今こそ「あじまりかん」の大いなる力を汲み出す時です。
 故山蔭師が預言された「新しい神話」(記事「あじまりかんは貴方を自由にする」を参照)とは、師の足下に初めから回答として存在していたのです。その回答とは大神呪「あじまりかん」です。佐藤博士によれば、山蔭神道は天皇神道とも呼ばれ、天皇行法の中核である「あじまりかん行法」の伝承主体でした。
 「あじまりかんと大元霊の関係」は「ものすごい真実」であるが、不思議なことに誰もがそのことに気付かなかったのです。
 故山蔭基央師の預言であった「新しい神話」の意味を発見したのは、山蔭神道とは無関係の、当時はソフトウェア・エンジニアであった筆者だったということになります。
 私はそのことに気付いた時、故山蔭師の遺影を思い浮かべて、「山蔭先生。ついに『あじまりかん』で大元霊が降臨しましたよ」と報告しました。
 故山蔭師には、筆者が三十代の時に一度だけお目にかかっているという間柄でしかないのですが、師の預言成就は筆者に委ねられたのです。
 もっとも、これは私が勝手に思っているだけで、山蔭神道より公認されている訳ではありません。また、公認されるべき必然性や必要性もないと考えています。すべては私が自分の責任で、正しいと信ずることを実行すればよいからです。
 大本預言・日月神示の「一輪の秘密/一輪の仕組」の正解は、誰も想像しなかった山蔭神道の大神呪「あじまりかん」に隠されていたのです。

◎「あじまりかん」の科学=神の実在を前提とする科学

 私には、この種の事柄(「あじまりかん」の秘密)を解明するための基本的条件が備わっています。
 この条件とは、「自分の心身を使って神さまなどの霊的事象を科学する」という生き方を意味しています。
 私は身を持って体験したことしか信じない質(たち)です。

 私が「身を持って体験したこと」とは、「身をもって神の存在を体験したこと」という意味です。この一節の意味を正しく理解していただくには、もう少し説明が必要になります。
 「自分の身体を使って」という以上、「そもそも神という目に見えない存在を体験したり認識したりすることが可能なのか」という疑問を抱く方が出てきても不思議ではありません。
 筆者は自分の身体で、神や霊などの目に見えない存在を波動的に検知できます。自分は昔からそういう体質なので、誰でも私と同じように感じることができると思っていたのですが、妻に自分が感じているものを確かめると「感じない」と言われることが多いです。
 だが、よくよく尋ねてみると「何となくこういう感じ」というものはあるようです。そういう場合、私が感じているものと基本的には一致しています。誰でもある程度は目に見えないものを感じることができるようです。
 ただ、私の場合、その感覚をいつも普通に使っているので、妻よりはハッキリ感じるという事情があるようです。多くの人は私の妻と同じように「神や霊を感じない」と思い込んでいるだけで、実際には感じているというのが正しそうです。気配や雰囲気と言えば、誰でも感じます。「気配や雰囲気を感じる能力だったら誰でも持っている」ということは正しいでしょう。この能力は実は霊的な能力なのです。
 次に、無用な誤解を避けるため、本書で筆者が使用する「科学」という言葉の定義を明確にしておきましょう。
 本記事における「科学」とは、「神の実在を大前提とする科学」です。「神」とは「目に見えないけど実在する貴い霊的存在」という意味です。すべては「神の実在」という一点からスタートします。
 だから、「目に見えない存在は信じない」という方には本記事の内容は不適合となってしまいます。現在の物質科学だけを信じる方には、本記事の論旨は苦痛かも知れません(そういう方は本記事を読むこともないから気にすることはないのですが……)。

 だが、現在の物質科学では測定できない目に見えない貴い存在があると考える方には、本記事の内容はすんなり受け入れることができると信じます。
 そもそも、私がどうして「科学」という言葉を使うかと言えば、「神さまの世界に接触するための経験的な知識の集積」が厳然として存在するからです。
 「あじまりかん」とは、古代より日本人が唱え続けてきた貴重な体験の集積でもあります。体験の集積とは、再現性の証拠です。「あじまりかんを唱えれば、不思議な力が働いて守られ幸せになる」という体験が積み重ねられてきたのです。神の存在が目に見えずとも、「あじまりかんは効く」のです。また、「あじまりかん」を唱えれば、誰でも神の存在を感じるのです。

◎「あじまりかん」は合気道と同じだ

 「あじまりかんの科学」とは、「あじまりかん実修者」が各々の肉体を使って体験を積み重ねてゆくという、掛け値なしの方法論です。

植芝盛平翁の演武(投げられた人は「自分がどうして飛ばされたのか分からない」と言う)

 合気道などの武道では、日々の修練が欠かせないものですが、「あじまりかん」の場合は、日々「あじまりかん」を唱えて自己点検することが武道の修練に相当します。合気道のように身体を動かす必要はありませんが、心と声を使って身体に「あじまりかん」を鳴り響かせなければなりません。この方法は武道には見えませんが、知らず知らずのうちに心身を使っているので、立派な武道なのです。
 この方法に従えば、合気道開祖の植芝盛平翁のような達人になってしまうのです。
 どうしてそうなるのか? それは次のような理由からです。
 「あじまりかん」を唱えれば唱えるほど、大神さまより御霊(みたま)をいただくことができます。これを「御霊のふゆ」と呼びます。元の意味は「神さまからお蔭をいただく」ですが、実際に御霊が増えるのです。だから、実修者は絶え間なく霊的な成長を積み重ねていくことができます。
 そして、いつの間にか、想像もできないほどの魂力(たまぢから)・霊力をいただいてしまうのです。「あじまりかん実修者」は知らず知らずのうちに、魂的に霊的に大きく育ってゆくのです。日々「あじまりかん」を唱え続けるという積み重ね、鍛錬の効果は武道の修練と全く変わらないのです。
 掛け値なしの体験の集積こそが科学なのです。それも「あじまりかん実修者」が自分の肉体を使って体験を積み重ねるという、武道と全く同一の仕組を使う科学なのです。それしか実効性のある方法は存在しないのです。
 そして、「あじまりかん実修者」は最終的に、大神さまと一体の神人になってしまうのです。これは合気道開祖の植芝盛平翁と同じ境地なのです。もちろんこれは、我々「あじまりかん修行者」が完全に翁のような武道の神さまと等しくなるという意味ではありません。ですが、翁と同じ世界に到達可能なのです。しかも、合気道とは違って、身体を痛めることもなく楽に達人の境地に入ってゆくことができます。
そのようにいいことづくめなのが「あじまりかん」なのです。

◎植芝盛平翁の「信仰の力が必要」の意味とは

 植芝盛平翁は生前、「信仰の力がないと天の浮橋に立つことができない」と説かれました。この「信仰の力」とは、霊の修行によって得られる霊的な力を意味しています。翁は修業時代に、大本の出口王仁三郎師に師事したり、古神道や言霊に関連した学びを重ねることによって、自身の霊肉併せた武道の完成を目指しておられました。
 肉体の方の修行に関しては合気道の型などを通じて体得可能です。しかし、霊の修行に関しては「信仰の力が必要」としか語らず、具体的にどうすれば霊の力を身に付けることができるのかについては語りませんでした。
 これでは、合気道の修行者が達人の境地を目指そうとしても、修行者が各自、自分で工夫するしかないわけです。肉体の修行だけでは合気道という武道は完全なものとはならないのですから、植芝盛平翁のような方が合気道の世界に数多登場することは困難だということになります。
 翁が言われている「天の浮橋に立つ境地」とは、霊肉共に修行ができて神人一如になった状態を意味します。そうなるには、霊の修行が欠かせないわけです。一体何をすれば、武道の修行者が霊の力を身に付けることができるのでしょうか?
 ここで、合気道等の武道の世界に身を置かれた方たちのために一言だけアドバイスします。

「『あじまりかん』を唱えれば霊の修行ができるので、植芝先生のような境地に到達できます」

 まあ、だまされたと思って「あじまりかん」を唱えてみて下さい。あなたの武道が内側から大きく変わってゆくことは間違いありません。そして、とことん「あじまりかん」を唱え切って下さい。あなたはいつの間にか「天の浮橋に立っている自分」を見出すことでしょう。神人一如の武道家が誕生するのです。

【参考資料】
一輪の秘密は既に戦前に解かれていた!?
あじまりかんは貴方を自由にする
あじまりかんは科学だ!
・『植芝盛平先生口述 武産合気』白光真宏会青年合気道同好会、1976年
・『アジマリカンの降臨