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機関誌第24号を発行しました

機関誌第24号を発行しました/斎藤 敏一
作成:2021年10月7日、最終更新:2021年10月7日
 

◆機関誌第24号を発行しました
 機関誌『あじまりかん通信』の第24号を発行しました。以下のような内容となっています。機関誌は会員になることで読むことができます。
 今号では大本教(出口王仁三郎)のことや、そこから派生した生長の家(谷口雅春)のことを紹介します。
 フリーエネルギーは弥勒の世のキーテクノロジーになることを検証します。

【目次】
表紙:大山紅葉をライトアップ(神奈川県伊勢原市)
あじまりかん人物評伝(41) スティーブン・M・グリア(1955―)
巻頭言 — 弥勒世の創造には大いなる戦略が必要である1
連載 あじまりかんの渦 本番編3
 第二四章 弥勒世現出 後編3
  ◆出口王仁三郎が弥勒世の邪魔をしている 3
  ◆弥勒世では王仁三郎は無用である 5
  ◆谷口雅春の唯神実相論と弥勒下生論 6
  ◆谷口雅春も日月神示も「弥勒下生」を説いた 8
  ◆住吉大神こそ日本の中核神である 11
  ◆アジマリカン行者は何をするのか 14
  ◆ソリューションGとはどんな技術か 16
  ◆フリーエネルギー抑圧陰謀論とは 19
  ◆誰がフリーエネルギー普及を推進すればよいのか??? 20
  ◆フリーエネルギー・UFO・異星人―分かったこと・分からないこと 22
  ◆フリーエネルギーの発見→製品化→全地球的普及でミロク世が姿を現わす 25
  ◆スティーブン・グリアの未来世界には日本が存在しない⁉ 29
  ◆バック・トゥ・ザ・フューチャーではなく、バック・トゥ・ザ・昭和だ! 30
編集後記32
あじまりかん人物評伝(42) ケント・ギルバート(1952―)33
裏表紙:亀ヶ池八幡宮(相模原市中央区上溝)


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最終章 結論ーアジマリカンは聞こえる神 [Final Chapter Conclusion – Ajimarikan is Kami that can be heard]


◆アジマリカンの正体とは [What is the true identity of Ajimarikan?]

 本論において私が伝えたかったのは、「『アジマリカン』というコトバが日本に保持されてきた」という事実と、「『アジマリカン』は人や国家が神となる方法論である」というメッセージである。
 In this paper, I wanted to convey the fact that “the word “Ajimarikan” has been retained in Japan” and the message that “‘Ajimarikan’ is a methodology by which humans and nations become kamis (= gods)”.

①「アジマリカン」という「神になるためのコトバ」が日本に存在する。
②「『アジマリカン』を念じて神になった」事例(=私)が存在する。
③私以外にも「アジマリカン」で神になった人がいるに違いない。
(1) There is a “Kotoba (= word) to become a kami” called “Ajimarikan” in Japan.
(2) There is a case (= of me) “becoming a kami by praying ‘Ajimarikan'”.
(3) There must be someone other than me who became a kami with “Ajimarikan”.

 2021年時点では、上記の三点を主張するだけで良しとしなければならない。私の中では①と②の両方とも事実として認識しているが、他人に正しく伝えるは少ない。
 本論の読者が自分自身で「アジマリカン」を唱えることによって、神の直接認識への道が開けるのである。
 As of 2021, all we have to do is to assert the above three points. I recognize both (1) and (2) as facts, but I have little way to tell others correctly.
 When the reader of this paper chants “Ajimarikan” by himself can open the way to the direct recognition of God by chanting “Ajimarikan” by himself.

 上記の②では、私自身を「アジマリカンで神になった」事例としているが、もちろん、自分の中でそのように感じているという話である。実際には、私以外にも多くの人が既に神になっているのではないかと想像しているのである。「人が神になる」というのは、その人の中の神=直(なお)霊(ひ)が表に出るという現象である。『日本とはどんな国』を残された佐藤定吉博士は、同著を読む限りでは、神になった事例としてよいと考えている。
 In (2) above, I take myself as an example of “becoming a kami in Ajimarikan”, but of course, it is a story that I feel that way within myself. In reality, I imagine that many people other than me have already become kamis. “A person becomes a kami” is a phenomenon in which the kami in that person = Naohi (= a direct spirit) appears. Dr. Teikichi Sato, who left behind “What kind of country is Japan?”, as far as reading the book, is thought that it is a good example of becoming a kami.

 直霊を持たない人はいない。「アジマリカン」を唱えれば直霊が表に出て、その結果、「自分は神であるという自覚」が出てくるのである。その時には、「アジマリカン」が自分の腹中に入り切りになったと感じる。つまり、自分とアジマリカンの区別が付かなくなる。そういう非常に不思議な「人から神へと切り替わる」体験が発生するのである。そういう方がボツボツ出現してもよい頃だ。本論を読まれて「自分は神になった」と思われる方は是非声を上げて欲しい。あるいは、次に「アジマリカン」で神に成るのは貴方の番である。
 No one exists who does not have Naohi (= a direct spirit). If you chant “Ajimarikan”, your Naohi will come out, and as a result, “awareness that you are a kami” will come out. At that time, I feel that “Ajimarikan” is completely within me. In other words, I cannot distinguish myself from Ajimarikan. Such a very mysterious “switching from person to kami” experience occurs. It’s about time that such a person may appear steadily. If you read this article and think that you have become a kami, please raise your voice. Or next, it is your turn to become a kami next with “Ajimarikan”.

 本論の結論は、「アジマリカンは聞こえる神である」ということだ。見えない神を聞こえるようにしたコトバ。それが「アジマリカン」なのである。近い将来、渦の御宝・アジマリカンが世界に大旋風を巻き起こす(予定である)。
 The conclusion of this paper is that “Ajimarikan is an audible kami”. Kotoba (= a word) which made it possible to hear the invisible kami. That is “Ajimarikan”. In the near future, the vortex treasure, Ajimarikan, will create a great whirlwind in the world (planned).

◆未解決項目←要検討 [Unresolved items <- to be discussed]

 本論では、「アジマリカン」というコトタマについて検討してきた。最後に、私が未解決、あるいは、要検討と判断したことについて、今後のために整理しておきたい。
 In this paper, we have examined the word “Ajimarikan”. Finally, I would like to summarize what I have determined to be unresolved or need consideration for the future.

①アジマリカン=コトタマ=直霊=内なる神 [(1) Ajimarikan = Kototama = Naohi = Inner kami]

 大神呪アジマリカンを唱えるという自力的行為によって、本当に神になれるのか自問自答することしばしばである。その行為は一見自力であるが、外から神の霊(=直(なお)霊(ひ))が飛び込んでくるように観じられる。
 I often ask myself if I can really become a kami by the self-reliant act of chanting the great Kami’s spell Ajimarikan. At first glance, the act is self-reliant, but it seems that the spirit of Kami (= the direct spirit) jumps in from the outside.

 この疑問がいつの日か解消されることを希望するが、現在の認識としては「アジマリカン=コトタマ=直霊=内なる神」という等式が成り立っているように感じられる。一層の研究が必要であろう。
 I hope that this question will be resolved someday, but the current perception seems to be that the equation “Ajimarikan = Kototama = Naohi = Inner kami” holds. Further research will be needed.

②超能力や超人的修行は本当に必要か [(2) Is supernatural power or superhuman training really necessary? ]

 直霊という神の分霊について深く知りたいと考えて、『川面凡兒―日本人の霊性に多大な影響を与えた神人』(氷川雅彦、光祥社Kindle 版、2014年)を参照した。読むと「川面凡児という人はすごい人だった」ということは分かるのだが、全く感銘を受けることはなかった。
 I wanted to know more about Naohi which is the divided spirit of the Kami, Bonji Kawazura – A kami-person who had a great influence on the spirituality of the Japanese (Masahiko Hikawa, Kindle Edition, 2014). I can understand that “Bonji Kawazura was a great person”, but the book wasn’t impressed at all.

 その理由ははっきりしている。著者の氷川氏の姿勢「偉人の業績を紹介して事足りる」に納得できなかったのである。過去の超絶的神道修行者の話を紹介しても無意味であると断言できる。どうして無意味かと言えば、「私も貴方も川面凡児にはなれない」ことが明らかだからである。そういう太鼓持ちの輩が、偉人と言われている方の業績をどんなに紹介しようが、凡人には全く真似ができない。川面凡児のように非凡な超人的人物の話を得々と展開するというのは如何なものか(無性に腹が立つ)。絵に描いた餅は食べることができない!
 The reason is clear. I was not convinced by the attitude of the author, Mr. Hikawa, “It is enough to introduce the achievements of great men”. It can be asserted that it is meaningless to introduce the stories of past transcendental Shinto practitioners. The reason why it is meaningless is that it is clear that “neither I nor you can be Bonji Kawazura”. No matter how much such a person with a drum introduces the achievements of a person who is said to be a great man, ordinary people cannot imitate him at all. What is it like to develop the story of an extraordinary superhuman person like Bonji Kawazura? (I had an urge to get angry.) We can’t eat the rice cake drown in the picture!

 上記の例と全く同じ理由で、以下の人物の業績は認めることができるが、彼らの残した道は評価できない。その人の生き方を真似することは不可能だし、真似したくもないからだ。どなたも不世出ともてはやされる人物だが、気に入らないのである。
 For exactly the same reasons as in the example above, the achievements of the following persons can be acknowledged, but the path they have left cannot be evaluated. It is impossible and unwilling to imitate that person’s way of life. Everyone is praised as a peerless, but I don’t like them.

1.イエス・キリスト(「我一人神の子」という不自然な教えを説いた)
2.出口王仁三郎師(『霊界物語』という確かめようのない教えを説いた)
3.五井昌久師(「我が名を呼べ」と語り、信者を自分に依存させた)
1.Jesus Christ (preached the unnatural teaching of “I am only Son of God”)
2.Rev. Onisaburo Deguchi (preached the uncertain teaching of “The Story of the Spiritual World”)
3.Rev. Masahisa Goi (Speaking “Call my name” and made believers dependent on himself)

 だが、アジマリカンは誰でも唱えることができる。アジマリカンを唱えることは極めて簡単で誰でもできるからである。上記の三人は確かに聖者かも知れないが、凡人の参考にはならない。その意味で、非凡なことは大いなる誤りである。いやしくも宗教的指導者たる者は、人が真似したくても真似できないような超人的存在になってはならないのである。エライ人をいくら誉めても世界は良くならない。そういう無意味なことはいい加減に止めるべきだ。
 However, anyone can chant Ajimarikan. This is because chanting Ajimarikan is extremely easy, and anyone can do it. The above three persons may be saints, but they are not helpful to ordinary people. In that sense, extraordinary is a great mistake. A person who is a religious leader must not be a superhuman being who cannot be imitated even if he is wanted to be imitated. No matter how much you praise the great people, the world will not be improved. Such meaningless things should be stopped henceforward.


 非凡な人間の残した業績は凡人の役に立たない。仮に彼らが非凡な人物であったとしても、そういう生き方を選択してはならなかった。彼らは皆超人的だが、根本的なところで間違っていた。彼らの元にいれば、後進は彼ら教祖を越えてゆくことができないからだ。
 これは、斎藤という一人の「アジマリカン行者」からの批判である。私は、凡人でもすぐに実行可能な「アジマリカンの道を広めたい」と心底から願っている。
 The achievements left by extraordinary human beings are useless to ordinary human beings. Even if they were extraordinary people, they should not choose such a way of life. They are all superhuman, but fundamentally wrong. For them, the younger generation cannot go beyond their gurus.
 This is a criticism from one “Ajimarikan ascetic” named Saito. I sincerely hope to spread the way of Ajimarikan that even ordinary people can do it immediately.

③渦の御宝「アジマリカン」は大神の最終兵器か [(3) Is the vortex treasure “Ajimarikan” the ultimate weapon of the Great Kami? ]

 本論の最後になるが、果たして「アジマリカン」は大神の世界改造のための御神宝なのか。もしそうならば、この御神宝によって世界はどのように改造されてゆくのかが気になるところだ。斎藤には神通力はないので、これからどういう未来図が展開するのかを語りたくても、その未来図を霊視することはできない。よって、頭を捻るしかないということになる。
 Last in this paper, is “Ajimarikan” a sacred treasure for the remodeling of the world of the Great Kami? If so, I am wondering how the world will be remodeled by this sacred treasure. Saito has no magical power, so even if I want to talk about what kind of future map will develop, I cannot envision that future map. Therefore, I have no choice but to twist my head.

 拙著『日本建国の秘密 ヤコブ編』では、私が旧約聖書時代のヤコブだったという話が出てくるが、ヤコブが描いていた未来図についてだったら少し話せそうだ。
 In my book, “The Secret of the Founding of Japan, Jacob Edition”, there is a story that I was Jacob in the Old Testament era, but I think I can talk a little about the future map that Jacob had drawn.

「第三章 アジマリカンの歴史的属性」において、ヤコブが天使(実は異星人)と夜中に相撲を取ったことを書いた。旧約聖書時代のヤコブ=日本建国時のアメノヒボコ=現在の私であるから、話がややこしくなる。そういう輪廻転生譚は斎藤の中の事実かも知れないが、大嘘かも知れないからだ。だが、イスラエルの風が吹いてきたという私のイスラエル体験とは、私の霊的本体(あるいは、守護神)がヤコブであるという意味になる。そういう話を本に書くのはタブーらしいが、書いてしまったものは仕方がない。書いた後で地道に裏付けを取ってゆくしかないのである。
 In “Chapter 3 Historical Attributes of Ajimarikan”, I wrote that Jacob wrestled with an angel (actually an alien) in the middle of the night. Jacob in the Old Testament era = Amenohiboko at the time of the founding of Japan = the current me, so the story gets confusing. Such a reincarnation story may be a fact in Saito, but it may be a big lie. And my Israeli experience of the Israeli wind blowing means that my spiritual main body (or guardian deity) is Jacob. It seems taboo to write such a story in a book, but there is no help for what I have written. After writing, there is no choice but to steadily support it.

 私が『ヤコブ編』で語ろうとしたのは神の問題である。いつも言っていることだが、西欧文明を支えてきたキリスト教のGodには実体が存在しないのである。ところが、アジマリカンというコトバには間違いなく実体が存在する。つまり、アジマリカンには霊的な裏付けがあるのだ。その実体はGodではない神、造化三神と直霊(人間の中の神)なのである。今後は、西欧文明はなくなる(ほとんどゴミなので焼却)とだけ言っておこう。
 What I tried to talk about in “Jacob Edition” is a matter of Kami. As I always say, there is no substance in the Christian God that has supported Western civilization. However, there is definitely an entity in Kotoba (= the word) called Ajimarikan. In other words, Ajimarikan has spiritual confirmation. The substance is Kami that is not God, the three Kamis of creation and the Naohi (= direct spirit, the kami in human). Let’s just say that Western civilization will disappear (incineration because it is almost garbage) in the future.

 古代の宇宙人が地球人類に対して余計なお世話を焼いてきたのだが、もう世話焼きは要らない。自分の星に帰ってくれ。地球のことは地球人でやるからあなた達は自分の星に帰れ、と言いたいのだ。西欧文明はなくなって日本文明だけになるからである。この場合の日本文明とは、精神的には縄文のところまでバックする(=純化する)のだが、日本文明の中の西欧化された要素はきれいサッパリなくなる。もちろん、日本はなくならないどころか、地球全部が日本になるのだ。日本文明の質も決定的に変化する。先ずは要らないものを全部捨てて身軽になるところから、世界改造がスタートするのである。この話を書き始めたら止まらなくなるので、ここでストップする。
 Ancient aliens have taken extra care of humankind on Earth, but no more care is needed. Go back to their own star. I want to say that they can go back to their own star because the earth’s matters  are done by earthlings. This is because the Western civilization disappears and only the Japanese civilization becomes. The Japanese civilization in this case mentally backs up to the Jomon period (= purifies), but the westernized elements in the Japanese civilization are totally cleaned. Of course, far from Japan disappearing, the whole earth will become Japan. The quality of Japanese civilization will also change decisively. First of all, the world remodeling starts from the place where all unnecessary things are thrown away and it becomes lighter. I can’t stop writing this story, so I’ll stop here.

 今後の展望は、アジマリカンで神になった人が何人登場するかで決まる。折角「アジマリカン」というコトタマを唱えるアジマリカン行者になった以上、神になってもらわないと困るというのが、斎藤の希望である。アジマリカンで自分が神になったと思えたら斎藤までご一報を。神どうしで地球の未来について語り合おうではないか。世界改造を実際に行うのは「神になったアジマリカン行者たち」なのだ。「アジマリカンをやる人は自分のことだけ考えているんじゃない、世界のことを考えなさい」と日本の神々は訴えている。アジマリカンをネタにして仲良し会をやって盛り上がったとしても、日本や世界は変わらないのである。
 The future outlook depends on how many people have become kamis in Ajimarikan. It is Saito’s hope that since they have become Ajimarikan performers who recite the word “Ajimarikan”, they should become kamis. If you think you have become a kami with Ajimarikan, please let Saito know. Let’s talk about the future of the earth, the same kami and kami together. It is the “Ajimarikan ascetics who have become kamis” who actually perform the world remodeling. “Ajimarikan ascetics must think about the world, not just yourself”, the Japanese kamis appeal strongly. Japan and the world will not change even if we have a good friendship party with Ajimarikan as a material.

 この場合、アジマリカン行者たちが大神の器となる。アジマリカン行者が立ち上がらないでどうする。アジマリカン行者以外に世界改造できる人間はいない。人任せじゃ世界は絶対に良くならない。そのことを腹の底から分かってほしい。アジマリカンをやっているということは、そういう意味なのだ。貴方が世界を改造するのだ。
 In this case, the Ajimarikan ascetics become the vessels of the Great Kami. What to do if the Ajimarikan ascetics do not stand up. There is no one who can remodel the world other than the Ajimarikan ascetics. The world will never been improved if you leave it to others. I want you to understand that from the bottom of your stomach. That’s what it means to be doing Ajimarikan. You remodel the world.

 そういう近未来が来ることは間違いない。神人が一杯出て来ないと話にならないのである。そのためにアジマリカンが存在する。神人が集まって知恵を出し合って企み事を進めるのである。望むべき未来の地球をデザインしなければならない。それはそれは楽しい創造の時代がやってくるのだ。
 聖書の黙示録を引き合いに出して、「破壊の後にキリストがやって来て千年王国を創造する」などということがまことしやかに語られる。だが、それはとんでもない噓である。「破壊じゃ駄目でしょう。不要物の廃棄でしょう」
 There is no doubt that such a near future will come. It will not be talked about unless a lot of kamis come out. That is why Ajimarikan exists. The kamis gather and share their wisdom to proceed with the plot. We must design the future earth that we should hope for. It’s an era of fun creation.
 Citing the apocalypse of the Bible, it is said that “Christ will come after destruction and create a millennial kingdom”. But it’s a ridiculous lie. “Destroying is impossible. Must abandon unnecessary things”.

 そういうことなのだ。要らないものを整理するだけでよいのである。世間でそういう発想しか語られないのは、「みろくの世」がどんなものかまるで分かってないからである。とどめの神が表に出るとはそういうことなのだ。最初に要らないものを「アジマリカン精神」で大掃除するのである。「地球が駄目になってしまうから火星に行かなきゃならない」などという番組をヒストリー・チャンネルやディスカバリーチャンネルで盛んに放映しているのだが、それは本末転倒もいいところである。先に地球のメンテナンスをすれば、現在・未来の人類を養う十分な容れ物が出来上がるのだ。
 That’s what it is. All you have to do is sort out what you don’t need. The reason why only such ideas can be talked about in the world is that they do not know what the “Miroku no yo (= Maitreya world)” is like. That’s what it means for the final Kami to come out. Clean up what you don’t need first with the “Ajimarikan mind”. Programs such as “I have to go to Mars because the earth will be ruined” are being actively broadcast on the History Channel and the Discovery Channel, but that is also putting the cart before the horse. If we maintain the earth first, we will have enough containers to feed humankind now and in the future.

 米国の科学系TVチャンネル(スカパーなどで放映)は、もちろん、日本よりは数歩先を行っているので、楽しませてもらっている。だが、「火星開発」という発想はいただけない。「先ず地球をどうするか」という解答が示されていない。私達の地球をどのように改造すれば良くなるのかというビジョンが全く出て来ていないのである。世界の地域紛争や地球温暖化問題ばかりに目が行っているだけで、根本的な施策を出せている人はいない。これは本当にそうなのである。
Of course, the US science TV channel (aired on SKY PerfecTV, etc.) is a few steps ahead of Japan, so I am entertained. However, the idea of ​​”Mars development” cannot be employed. The answer “what to do with the earth first” is not shown. There is no vision of how to remodel our planet. No one has taken fundamental measures, just focusing on the world’s regional conflicts and global warming issues. This is really the case.

 ヒントは次の通りだ。

 (A)先ず地球を掃除する。
 (B)地球を掃除した後に築いてゆくべき社会のあるべき姿を考える。

 順番にやっていかなければならない。ただし、この(A)・(B)は同時に考えるのだ。この作業は「ああでもない、こうでもない。こうしよう、ああしよう」と非常に面白いものになる予定である。
Here are some tips:

   (A) First, clean the earth.
   (B) Think about what society should be like to build after cleaning the earth.

   You have to do it in order. However, think of these (A) and (B) at the same time. This work will be very interesting, saying, “Not that, not this. Let’s do this, let’s do that.”

 今私が語れるのは、それくらいである。
 本論の背景をより深く理解するには、拙著『日本建国の秘密 ヒボコ編/ヤコブ編』、『アジマリカンの降臨』を参照されたい。これらの作品には、アジマリカンと日本の歴史との関係、アジマリカンと人類史の関係が語られている。人類史をスッキリと理解するには日本建国を理解するのが最も早道である。歴史や神の問題に興味のある方は是非挑戦していただきたい。
 That’s all I can talk about right now.
 For a deeper understanding of the background of this paper, please refer to my book, “The Secret of the Founding of Japan, Hiboko Edition/ Jacob Edition” and “The Advent of Ajimarikan”. These works talk about the relationship between Ajimarikan and Japanese history, and the relationship between Ajimarikan and human history. The fastest way to understand human history is to understand the founding of Japan. If you are interested in history and God’s problems, please try it..
 

機関誌第11号を発行しました

機関誌第11号を発行しました/斎藤 敏一
作成:2019年9月1日、最終更新:2019年9月1日
 


◆機関誌第11号を発行しました

 機関誌『あじまりかん通信』の第11号を発行しました。以下のような内容となっています。

【目次】
あじまりかん人物評伝(15) ヘレナ・P・ブラヴァツキー(1831-1891)
巻頭言 — 「あじまりかん」は敦賀の氣比神宮の地に降臨した!1
連載 あじまりかんの渦 歴史編3
 第十一章 日本が創生された瞬間3
  ◆人類史とは人類という生命体の履歴である 3
  ◆歴史の中にこそ真実「未だ現れざる未来」がある 4
  ◆驚くべき日本建国史–アメノヒボコは最初の天皇だった 6
  ◆大和建国当初の王権の推移……皇位継承の混乱の始まり 10
  ◆初代天皇・アメノヒボコが正統だったという根拠 13
  ◆出雲という地名は桜井市の出雲が発祥地である 15
  ◆社稷祭祀の主体は大王アメノヒボコ以外にはありえない 18
  ◆もう一つのアメノヒボコ来朝譚 22
  ◆アメノヒボコ大王の年表 23
あじまりかんQ&A 28
 Q 「あじまりかん」はスピリチュアルですか? 28
 Q 「あじまりかん」とスピリチュアルの違いは? 28
 Q 「あじまりかん」はオカルトじゃないのですか? 29
スピリチュアル幻想を捨てよ30
 ☆出口王仁三郎師と神の経綸に関する一考察 30
 ☆リアルな神がスピチュアルな幻想を消去する 31
編集後記32
あじまりかん人物評伝(16) 藤田妃見子(1923-?)

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「一厘の仕組」は既に戦前に解かれていた!?

本当の話:「一厘の仕組」は既に戦前に解かれていた!?/斎藤 敏一

作成:2018年1月16日、最終更新日:2018年5月5日


◎正月早々ビックリしたこと(その2)

 「2018年は何か大きなことが起きる年になりそうです」と、先日の記事「これが大元霊のお姿だ!」で書きました。
 実はつい先日のことですが、もう一つビックリするような出来事がありました。仕事部屋の片付けを兼ねて屋根裏部屋でめぼしい本探しをしていた時のことです。『植芝盛平先生口述 武産合気(たけむすあいき)』という学生時代に購入した本を読み返す機会があったからです。その本は、昭和五十一年に白光真宏会青年合気道同好会から出版されたものですが、合気道開祖・植芝盛平翁の講話を口述筆記したもので、その内容の素晴らしさにビックリしたということなのです。翁は、こんなことを合気道同好会の青年たちに語っています。

 釈迦やキリストや孔子にまかせてはおけない。もう予言の時代は過ぎた。今はそれを実行に移すだけです。各々が天之御中主神(空即実相)にならねばならない。私達は一柱の神ではなく、八百万の神にみんな守護されているのです。これからは各々の天命を全うするように進んでゆくのです。皆さんお願いしますよ。

 ビックリしたのは、「大元霊=宇宙の大神さま」のお姿に関して話されている以下の一節です。

 一霊四魂三元八力の大元霊が、一つなる大神のみ姿である。大神は一つであり宇宙に満ちて生ける無限大の弥栄の姿である。即ち天なく地なく宇宙もなく大虚空宇宙である。その大虚空に、ある時ポチ忽然として現る。このポチこそ宇宙万有の根源なのである。そこで始め湯気、煙、霧よりも微細なる神明の気を放射して円形の圏を描き、ポチを包みて、初めて◎(ス、中央は実際には黒丸。以下同様)の言霊が生まれた。
 これが宇宙の最初、霊界の初めであります。
 そこで宇大は、自然と呼吸を始めた。神典には、数百億年の昔とあります。そして常在(すみきり)すみきらいつつ即ち一杯に呼吸しつつ生長してゆく。ゆくに従って声が出たのである。言霊が始まったのである。キリストが「はじめに言葉ありき」といったその言霊が◎(ス)であります。これが言霊の始まりである。

 記事「これが大元霊のお姿だ!」の前山さんからの報告にある「まるにチョン、台風の目のような、渦のような物が見えます」の「まるにチョン」のところに相当する「宇宙創生」のお話だということになります。
 植芝盛平翁の次ような一節はいかがでしょうか?

 合気道とは、宇宙の万世一系の理であります。
 合気道とは天授の真理にして、武産(たけむす)の合気の妙用であります。
 合気道とは、天地人、和合の道、とこうなるのであります。
 また合気道とは、万有の処理の道であります。
 合気道とは、言霊の妙用であり、宇宙みそぎの大道であります。
 この道を思惟する人は、宇宙建国完成の経綸に奉仕しなければならないことになっております。

 上記の文中の「合気道」を「あじまりかんの道」に置き換えて読んでみました。するとどうでしょう。私が拙著「あじまりかん」シリーズで伝えたいと思っていることになってしまうことに気付いたのです。「ああ、私と植芝盛平翁は同じなんだ・・・」という感覚です。

◎斎藤と植芝盛平翁の違い

 斎藤が『アジマリカンの降臨』で書いたことと植芝盛平翁が語っている内容は同じ世界から来ているということが分かったのです。つまり、植芝先生は「あじまりかん」すなわち、大元霊そのものの立場で語っておられるのです。それは当然でしょう。植芝盛平翁は、白光真宏会の五井師をして「植芝先生は神の化身だよ」と絶賛せしめた方なのですから。植芝先生の教えも最高でないはずがありません。
 「暗に斎藤の言っていることが最高だと言っているみたいだ」という声が聞こえてきそうです。はい、斎藤が語ることは最高だという気持ちがあることは否定しません。なぜなら、私は「あじまりかん」で大元霊が降臨するという話を語っているのですから、理論的には最高だと思っています。
 ですが、大きな違いがあります。武産合気という言葉からも分かるように、植芝盛平翁の道は、武の道です。一方、斎藤が説いている「あじまりかんの道」は普通人の実践可能な道です。それに、極めて簡単です。
 さらにもう一つの違いがあります。植芝盛平翁と同等の方は合気道からは出ていないのではないかということです。つまり、植芝先生と同レベルの神格を生きている間に体現された方は武道界にはいないのではないかと思うのです(もしおられたらごめんなさい)。植芝先生の『武産合気』の本を読んで「スッキリ分かった」と明言できる方は非常に少ないのではないでしょうか。神の化身が口述されたお話は極めて高度な悟りの世界なです。おまけに、その内容を頭で分かったとしても武道の世界のことですから、行が伴わなければ分かったことにはならない訳です。だから、理屈が分かってもおいそれとは植芝盛平翁の境地には到達できないということになります。こういう方は不世出、つまり、後にも先にも翁ただ一人でしょう。合気道で千人、万人の植芝盛平が輩出するということはあり得ない訳です。
 これはあくまでも斎藤の見解ですが、「あじまりかんの道」の場合は、誰でも斎藤と同程度(神人一如の自覚に達すること。斎藤はまだ発展途上なので、悟りのレベルは最高ではないです。残念ですが・・・)にはなれると考えています。その理由は、「あじまりかんを唱えると無条件に大元霊が(波動として)降臨する」からです。すぐに立派な境地になれる訳ではないですが、無心に「あじまりかん」を唱え続けることによって、徐々に「神人一如」の自覚ができてきます。だんだんと普通の人から神さまに近い人へと成長し続けることができるのです。
 「あじまりかんの道」は、古神道の言葉をあまり使っていない(使う場合は必ず解説しています)ので理論が一般向けで分かり易いはずです。そのため、我々のような普通人でも実践し易いと思います。「あじまりかん」を唱えると神の直接体験が可能です。ですから、誰でもその気になれば神と一つになれるのです。その点が「あじまりかんの道」が易行道だという最大の理由です。
 いずれにせよ、翁も斎藤も「最終的に天の浮橋(後述)に立つ神人とならなければ、神の経綸の大業は果たせない」という考えです。この「天の浮橋に立つ」心境になるには、それなりの修行が必要です。私自身、そこまで行っているかどうか心許ないのですが、少しでもそこに近づきたいと日々努力しています。

◎「天の浮橋に立つ」ということ

天の浮橋に立つイザナギ・イザナミの二神

 植芝翁の教えで特に印象に残る言があります。それは「天の浮橋に立って」という言葉です。図のナギ・ナミ二神は天の浮橋に立たれており、これから国産みをなさろうとしている場面です。
 重要なのは、天の浮橋に立つとは「御親=大元霊=大神様に帰一した状態」であるということです。キリスト教的な言い方をすれば「自分の十字架を背負ってイエスに着いてゆく」ということです。私はキリスト教の十字架という言葉が好きではないので、「身を捨てて天地の十文字の交点に立つ」というような表現を使います。とにかく、最後はそこに行き着くのです。そこからでなければ、天地の経綸は進めてゆけないのです。
 翁は常々「天の浮橋に立って事を為すべし」と説かれています。このように、古事記等の神典に登場する言葉を使って道を説かれているのが植芝盛平翁なのです。古事記等に馴染みのない方にはちょっとしたハードルかも知れません。私も学生時代に『武産合気』の本を読んでも、何となく雰囲気しか分からなかったという記憶があります。ですが、四十年後の今、「あじまりかん」の秘密を解く過程で古神道の人間観や世界観を学んだ結果として、「ようやく植芝盛平翁の世界に近づくことができた」と嬉しかった訳です。
 斎藤は、「あじまりかんの道」によって「我即宇宙」の自覚を持った「天の浮橋に立つ神人」が全世界で多数輩出すると考えています。
 このことは、近日中においおい分かってくることだと思います。

◎「一厘の仕組」と植芝盛平翁の関係

 さて、本記事タイトルの「『一厘の仕組』は戦前に既に解かれていた」の意味はこうです。
 植芝盛平翁は戦前に、神そのものとなる最終段階の修行を経て「自分が神そのものとなったこと」を自覚されたと言われています。「神そのもの」の「神」とは大元霊=宇宙の大神さまという意味です。自分が宇宙の神さまと一体になってしまったのが合気道開祖である植芝盛平翁だったということになります。
 本記事で取り上げた書名『武産合気』とは、武による合気の産霊(むすび)という意味のかなり難しい言葉です。これは、大元霊(=宇宙の大神)と一つに成り切ったところから武による産霊(むすび)の御業を遂行するというものです。そんなことを言われても「エッ、何のこと?」と聞き返されかねないほど高次元の、考えたこともないような使命を、植芝盛平翁は戦前の若かりし頃に授かったのです。
 その時、植芝師は大本神諭で言われるところの「一厘の仕組(=一輪の秘密)」を解き切って、神様そのものの立場に立たれたのでした。植芝翁は神の化身となられた訳ですから、この宇宙の「一厘の仕組」そのものとなってしまわれたということなのです。翁自身「私のような人間は人類史上いまだかつていなかった」とおっしゃっています。
 かなり有名な「パインタラ事件」というのがありました。1924年、翁が41歳の時、大本の出口王仁三郎師のモンゴル行に着いて行って、危うく死刑となるところまでいったが、パインタラに駆けつけた日本領事館員の交渉により処刑は中止となり九死に一生を得たという出来事です。翁はその時には、境地としては出口王仁三郎師以上のところまで行っていたと考えられます。翁は武の世界で道を究め、宗教の世界では王仁三郎師の陰に隠れてしまっているのですが、霊位は王仁三郎師以上だったかも知れません。
 植芝盛平師は「一厘の仕組」をただ一人黙々と合気の世界で行じられた、不世出の神人だったのです。残念ながら同格の後継者はいません。翁から「五井先生は祈りのご本尊です。私はいつも五井先生と霊的に交流しており、その素晴らしさはよく分かっています」と言われていた白光真宏会の五井昌久師も同様です。五井先生と同等の人が輩出しなければならないのですが、そのようにはなっていません。
 でも、それでは駄目なのです。ミロクの世を創るには何千、何万の神人が必要なのです。つまり、数多の植芝先生や五井先生が必要なのです。そういう道でなければ意味がないのです。「植芝先生は偉い」とか「五井先生は素晴らしい」という人がどれだけいても駄目で、みんなが神格を得て神さまになって、みんなでミロク世=世界一家の地上天国を創らなければならないのです。そういう道は今まで皆無だったのです。「あじまりかんの道」とはそのような方法論でありシステムなのです。表現は俗っぽいですが、文化系でも体育会系でもなく、理科系・技術系・システム屋の発想が必要となるのです。
 そこで斎藤が登場したという訳です。筆者の仕事は、その「一厘の仕組」をペンによって「あじまりかんの道」として、誰でも容易に踏み行えるように、システムとして科学的に、技術的に明らかにすることにあります。システムにならない限り、あるいは、スマホのように一般化しない限り、神さまを何千人、何万人も育て上げることは不可能なのです。私が説いている「あじまりかんの道」とは、そのようなものなのです。
 私と植芝盛平翁は「一厘の仕組」との関わりにおいて、方法は違いこそすれ、同じ道を歩んでいるということになります。植芝翁という偉大なる神の化身に一冊の本を通じて出会ったに過ぎないのですが、読んでいるだけで自分が浄められ高められる心地がします。また、何とも言えない使命感のようなものを感じ、心身がキュッと引き締まる昨日今日なのです。

【参考資料】
・『植芝盛平先生口述 武産合気』白光真宏会青年合気道同好会、1976年
・『アジマリカンの降臨