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「あじまりかん」と引き寄せ?!

「あじまりかん」と引き寄せの関係とは?

本当の話:「あじまりかん」と引き寄せ?!/斎藤 敏一

作成:2018年4月9日、最終更新日:2018年5月5日

 特に質問があったわけではないですが、「あじまりかん」を唱えながらいわゆる「引き寄せ」をやってよいかどうかについて考えてみたいと思います


◆「引き寄せ」とは何か

 まず、「『引き寄せ』とは一体どういう行為なのか」を考えてみましょう。
 「引き寄せ」とは文字通り、自分が欲するモノや状態を実現させようとする行為全般を意味しています。
 そもそも、私はこの「引き寄せ」という願望丸出しの言葉が好きではなかったので、「あじまりかん」の本を書いた時にも、「引き寄せ」の世界を考慮することは全くありませんでした。ところが、世の中広いもので、「あじまりかん」で願いが叶うということを聞かれた方の中には、「引き寄せ」術で勇名を馳せておられる方もおられたわけです。

①「願いを叶えたい」という気持ちには「引き寄せ」が含まれている!

 『唱えるだけで願いが叶う――「あじまりかん」の法則』というのが、私の最初の本の題名でした。ここには「願いが叶う」というキーワードが入っており、当然ながら「願いを叶えたい」人たちを引き寄せたわけです。
 つまり、私の本自体が一種の引き寄せ術を使っていたという事実が浮かび上がってきます。本のタイトルによって多くの人の興味を引くには、それなりのテクニックが必要なわけで、コピーのテクニックを上手に使えていたように思います。
 この「願いが叶う」というキーワードを含め、本のタイトルを提案されたのは出版コンサルタントの岡山氏だったのですが、おかげで拙著はかなりたくさん売れました。
 簡単に言えば、私自身の願いである「『あじまりかん』を多くの人に知ってもらいたい」が叶えられたのです。「あじまりかん」本の著者自らが、意図したか意図しなかったかは別にして、「引き寄せ」術のお世話になっていたのです。
      *      *      *
 筆者自身の以上の事実からも、「引き寄せの法則」が使われて功を奏したことは認めざるを得ません。筆者としてはあからさまに「引き寄せ」を謳っていないにも関わらず、本のサブタイトルとして(引き寄せテクニックを)使っていたので、「引き寄せ」の悪口を言うことはできそうにありません。

 このような事が分かってしまったからには、そもそも「引き寄せ」とは一体何かをキチンと定義する必要がありそうです。

②「引き寄せ」とは願望達成のための普遍的なテクニック

 前述のように、筆者自身が自分の願いを叶えるために暗黙のうちに引き寄せのテクニックを使っていたのだから、「何かを引き寄せたいという願望」を持つことの是非を問う必要があるわけです。
 大切なのは、「引き寄せ」を使うかどうかではなく、当人が引き寄せようとする対象が正しいモノかどうかを検証すべきであるということだと分かってきました。おおよそ、引き寄せのテクニックは何かをしようとする人間にとってごく普通の意識操作だということが分かります。

・自分の希望を明確にイメージとして描くこと
・思い描いたイメージを実現するために必要な行動を取ること

 これは、大昔から願望を叶えてきた人たちが普通にやってきたことであり、そのこと自体は悪いことでも何でもありません。引き寄せのテクニックそのものは、善でも悪でもなく、純粋な意識操作のテクニックであると言えます。
 「引き寄せ」とは願望達成のための普遍的なテクニックでしかないということになります。
 そうなると、「あじまりかん」を唱える際に、思い描く願望の内容自体が問題になります。
 どうしてこんなことを言うのかといえば、「あじまりかん」は神に由来する言霊だからです。つまり、自分の願望が神の心にかなっているかどうかが問題となるのです。
 
もっと分かり易く言えば、願望には「正しい願望」と「誤った願望」とがあるということです。つまり、「あじまりかん」を唱えて「正しい願望」を実現することはできても、「誤った願望」を叶えることはできないということになりそうです。

◆「あじまりかん」では「引き寄せ」も「欲望」もOK

 「引き寄せ」というテクニックそのものには善悪は存在しません。だから、神のエネルギーである「あじまりかん」が善悪の問題をコントロールします
 ある人が「お金が欲しい」という想いで「あじまりかん」を唱えるとしましょう。この「お金が欲しい」という気持ちは明らかに欲望ですが、そのお金で助かった人が正しいお金の使い方をすれば問題はないわけです。「○○さんと結婚したい」とか「△△の職業に就きたい」などという願望も、みんなが幸せになるのであれば全く問題ないということになります。
 でも、その願いが正しいか間違っているかをすべて自分で判断可能かと言えば、難しいケースがあります。では自分の願望の善悪を誰に判断してもらえば良いのでしょうか?
 ここまで読んでこられた方には既に解答が見えているのではないでしょうか。
 そうです。自分の願いの善悪や正否については、神さまに判断してもらえばよいのです。この場合の神さまとは「あじまりかん」の言霊です。これは極めて不思議なことなのですが、「あじまりかん」は言霊なので霊的な実体=神さまが存在しています。その神さまに結果をお任せすればよいのです

 日本書紀には、神武天皇の段に「賊軍の兄磯城(えしき)が要害を作って神武天皇の進軍をはばんだ時に、天皇の夢の中に天神が現れて『天神地祇を祀って厳咒詛(いつのかじり)をなせ』と忠告する」場面が出てきます。この「厳咒詛」とは、呪うことで、神の命として敵を呪うこともあったのです。神武天皇、神功皇后、応神天皇の三人には神から霊力(言霊の力)が与えられており、敵を大いに呪ったという記述があるのです。
 だから、神の力を持った人間が敵を呪うために「あじまりかん」を唱えたり、神に祈ったりすることも古代人の感覚ではOKだったということになります。ここは誤解しないでいただきたいのですが、神(=言霊)の力を使う場面というのは、非常に範囲が広かったということなのです。
 でも、みなさんは、決して「あじまりかん」を使って人を呪ったりしないでください(実際には正しい「呪い」も存在しますが、この世界に入ると色々大変ですので、入らないようにした方が無難です)。これは真面目なお願いです。
 以下は、本記事の結論です。
 「あじまりかん」を唱える時には、セーフティロックが働きます。つまり、悪いことはできません。

 ですから、「あじまりかん」を唱えて、お金やモノをどんどん引き寄せても大丈夫です。とにかく、良い目的で「あじまりかん」を唱えることです。
 また、「あじまりかん」を唱える時に、「引き寄せ」や「欲望」の要素があっても、そのこと自体は問題はありません。ただし、それが実際に叶えられるかどうかは「あじまりかん」=神さま次第です。
 自分の願いの是非が判断できない場合、その願いを持って「あじまりかん」を唱えて構いませんが、結果は「あじまりかん」に委ねるという潔さを待ちたいものです。

【参考資料】
『ヤタガラスの正体–神の使い「八咫烏」に隠された古代史の真実』関裕二著、廣済堂新書。
・『神武と応神 「祟り王」の秘密』関裕二著、小学館新書
 関裕二氏の古代史本には「神」の文字が入った天皇(皇后)が大いに人を呪った恐ろしい大王であることが語られている。

「あじまりかん」と「自霊拝」

自霊拝の光景――実際には姿見などを使用する。中央の丸い鏡は神棚に付いてくるもの。小さいので猫の置物を使って撮影した。

霊的観点:「あじまりかん」と「自霊拝」/斎藤 敏一

作成:2018年4月6日、最終更新日:2018年4月9日

 『あじまりかん通信第3号』の「あじまりかんの渦、第3章 あじまりかんの渦が働く仕組(1)」より、 自霊拝の意味について紹介したい。

 ついに私なりに自霊拝の意味を把握できたと思えるような体験があったからである。

◆ようやく分かった自霊拝の意味――「あじまりかん」の結果を検証する

 最近、自霊拝の意味と役割がハッキリと見えてきた。
 「天皇行法は『自霊拝』と『あじまりかん』の二種類の行法から成り立っている」
 これは、佐藤定吉博士の『日本とはどんな国』に書かれていたことだが、どうして二種類の行法が存在するのか、今一つ明確になっていなかった。
 だが、筆者の自霊拝実践時の最近の体験を通じて、これらの修行の役割と関係が明確になった。
 昨年(2017年)末の「あじまりかん講座」において、「自霊拝」についての質問があったので、メールマガジンで自霊拝の意味ややり方を説明した。「自霊拝」と「あじまりかん」は全く異なる行法なので、各行法の特徴を理解して「合わせ技」として実践すると、相乗効果で著しい霊性開発が期待できる。
 先ず、メールマガジン「あじまりかんと自霊拝」の内容を再掲しよう。

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①自霊拝の意味とやり方について
 神社にお参りすると、拝殿の前や正面に鏡が掲げられている。凸面鏡になっており、よく磨かれた鏡面には自分の姿が小さく映る。私の家の仕事部屋には神棚があるが、その神棚の正面にも小さな鏡があり、真正面から鏡をよく見ると自分が映っていることが分かる。だが、凸面鏡なので映っている自分の姿はあまりにも小さく、ここで語る自霊拝という目的にはかなわない。
 この鏡は、起源としては日本書紀の天孫降臨の段に登場する同床共殿(どうしょうきょうでん)の神勅に出てくる八咫鏡(やたのかがみ)(三種の神器の一つ)がモデルとなっている。

【同床共殿(宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい))の神勅】
 読み下し文:吾(わ)が児(こ)、此の宝(たからの)鏡(かがみ)を視(み)まさむこと、当(まさ)に吾(あれ)を視るがごとくすべし。与(とも)に床(ゆか)を同くし殿(おおとの)を共(ひとつ)にして、斎(いわひの)鏡(かがみ)となすべし。

大意   :この宝鏡(八咫鏡)を見る際は、まさに私を見るような気持ちで見なさい。いつも宝鏡と同じ部屋で起居し、祀りを続けていきなさい。

 この八咫鏡は本来、天皇の生活空間に常時かけておくためのものだ。ところが、現在は伊勢神宮に秘匿され天皇すら拝することができないという異常な状態になっている。人は「畏れ多い」と言うが、ただの鏡である。ちっとも畏れる必要はない。そういうおかしな八咫鏡のことはひとまず忘れよう。
 実際に我々が自霊拝という行為(修行)を行う場合には、壁に掛かった普通の姿見や洗面所の鏡を使う。両手で合掌する必要があるので、手鏡は駄目である。少なくとも上半身(頭とバスト)が映る鏡が望ましい。
 同床共殿の神勅の主旨は、「鏡に映った自分の姿を神として拝みなさい」ということだ。非常に単純だが、それだけに難しい修行である。自霊拝という言葉の意味は、「自分の霊を拝む」ということだが、この霊とは直霊(なおひ)(直日霊)のことだ。つまり自霊拝とは、神から直(じか)に分かれた自分の霊を拝むということに尽きる。こういう素晴らしい教えが日本神話には秘められているのだ。
 このように自霊拝は単純明快な修行だが、それだけに非常に厳しい修行であるという言い方もできる。なぜかと言えば、通常は鏡に映った自分の姿を神であるとは思えないからだ。鏡にはいつもの自分が映っているだけなのに、それを神さまと思うなどという芸当は普通なかなかできるものではない。いきおい、真剣にならざるを得ないわけだ。
 あじまりかん講座の当日、参加者から「自霊拝を実践してますか?」という質問を受けた。私は、毎日自霊拝を忘れずに実践しているので、「はい、やっていますよ」と答えた。
 さらに、「正しいやり方とかはありますか?」と聞かれた。私の回答は「自分を必死の覚悟で拝み倒すことだ」というものであった。実際、最初の頃はかなり気合いを入れて拝んでいた(今はそうでもない)。拝みながら「神さまありがとうございます。ご苦労さまです」と挨拶する。それにかかる時間は十数秒というところだろうか、あっという間に終わってしまう。
 必ずしも私のようにやる必要はないが、「自霊拝を真剣にやればやっただけのことはある」というのが私の見解だ。一種の心構えが必要なので、自霊拝を始める時は少し抵抗を感じることがある。そこを乗り越えれば、後は習慣になるので楽にできるようになる。
 最初だけはあじまりかんを唱えるよりも難しいかも知れない。だが、実際にやってみると効果は非常に大きい。何よりも良いのは、自分が好きになり、「私は貴い神である」という自覚が深まることだ。

②自霊拝とあじまりかんとの関係
 自霊拝とあじまりかんは全く異なる修行なので、車の両輪のような関係になる。あじまりかんで神の顕現・降臨を受けて、自霊拝で顕現・降臨した神(自分の姿として顕現している)を拝むという関係である。
 修行の目的や方法が異なるので、どっちがどうだという比較はあまり意味がない。また、どっちを先にやるのかということも明確には決められない。私の場合は、先に「あじまりかん」、次に「自霊拝」であった。しかし、これは結果論であり、決まり事ではない。
 大切なのは、「自霊拝」にしても「あじまりかん」にしても、その意味をよく理解して実践することだ。どちらも素晴らしい行法なので、毎日続けることであなたの神性が日に日に開発されるだろう。また、貴方の人相も日増しに良くなってゆくことだろう。

◆自霊拝では誰にでも「あっ、神さまだ!」体験が起きる!

 この自霊拝を私自身が約半年の間真剣に行じたところ、最近になって、鏡に映った自分を本当に神と思えるようになったのだ。時折、白光に包まれた神々しい自分の姿を拝むことができるようになったのだ。
 自霊拝を始めた頃は、鏡の中の自分を無理やり「神さまだ」として拝んでいた。かなり気合いを入れていたのだ。だが、最近はそういうことはなくなり、鏡に映った自分の姿を見て、ごく自然に「神さまがいる」と思えるようになったのである。
 「あれ、これはどうしたことだろう? いつの間にか神さまになっちゃった」という感覚である。この「神さまになっちゃった」という感覚が重要である。この体験に自分自身が驚いたのであるが、驚くと同時に自霊拝の意味が分かったのだ。
 この時の感覚を「あっ、神さまだ!」体験とでも名付けよう。
 この体験は私だけのものではなく、「あじまりかんと自霊拝」を実践する誰にでも起こることだ。誰でも鏡に映った自分の姿を見て、「あっ、神さまだ!」と思う時が来るのである。既に私と同様の体験をされている方もおられるに違いない(報告を待っています)。
 鏡は嘘をつかない。そのままの自分を映し出すからだ。そのままの自分がいつの間にか神さまになってしまったことが分かったのだ。これは来る日も来る日も「あじまりかん」を唱えた結果である。
「なるほどそういうことだったのか。自霊拝で現在の自分の状態が分かるのだ」
「『あじまりかん』を唱えると神になる」ということを、私は自著の中で繰り返し語ってきたのだが、この体験をするまでは一つの疑問が残っていた。最後の疑問と言ってもよい。
 それは、「あじまりかん行者が本当に神になったかどうかをどうやって知るのだろうか?」という疑問である。
 その疑問に対する回答がようやく、図らずして与えられた。自霊拝こそが自身の「神さまへの到達度」を測る行法だったのだ。
 だから、天皇行法は「自霊拝」と「あじまりかん」がセットになっていたのだ。
 自霊拝を行えば、鏡に映った自分の姿を見ることで、自然に自分が神さまになったことが体験的に分かる。「あじまりかん」を唱えている自身を日々点検することが可能になるのだ。
 もちろん「神さま」になったから「あじまりかん」を唱えなくてもよいということではない。自霊拝で「あじまりかん」修行の到達度「神が自分の中に留まっているかどうか」をチェックできるということが重要なのである。
 ここに至って、「天皇行法というシステムの完成度が極めて高い」ことが証明されたのだ。天皇行法には到達度チェックの仕組が最初から備わっていたのである。
 信じられないぐらい良くできたシステムではないか!
 本章(前半)の結論としては、次のように整理できる。

・「あじまりかん」とは神の渦巻きエネルギーの波動で、唱えた人に神が留まる。
・「自霊拝」によって、行者がどの程度の段階に至ったかどうかを測ることができる。

 霊性開発のためには、天皇行法「自霊拝とあじまりかん」一本でよいのだ。それさえ継続してゆけば、誰でも神になれるし、神になったことが分かるのである。
 筆者は最近の自霊拝時の「あっ、神さまだ!」体験によって、改めて「自霊拝とあじまりかん」を続けていこうと思ったのである。

【参考資料】
日本とはどんな国?:天皇行法(天皇神道)
日本とはどんな国?:天皇行の核心
日本とはどんな国?:天皇行の神髄
日本とはどんな国?:天皇行の『あじまりかん』

「あじまりかん」と先祖供養

ご先祖を供養するとは?

霊的観点:「あじまりかん」と先祖供養/斎藤 敏一

作成:2018年3月16日、最終更新日:2018年5月5日


 あじまりかん通信第二号に「神仏の祀り方と先祖供養について」という記事を書きました。それを転載すると同時に、情報を補足したいと思います。
      ×      ×      ×      ×
 神仏の祀り方を検討するためには、先ず「あじまりかん」の霊的な側面について概観を把握する必要があります
 「あじまりかん」を唱える時には、見えない世界、すなわち、神や霊の世界(神霊界、心霊界)と交渉を持つということを意味しています。次に示すのは、拙著『あじまりかんの法則』に掲載した「三千大千世界とあじまりかん」の図です。
 この図は、あじまりかん修行者が「あじまりかん」を唱える時には、創造神の世界から三次元宇宙まで「あじまりかんの言霊」が鳴り響くということを表しています。つまり、「あじまりかん」の音は単なる音ではなく、目に見えない世界を含めて響き渡るものだという事実を意味しています。
 ですから、「あじまりかん」を唱えると必然的に神や霊の世界と交渉することになるのです。そのことを先ず押さえておく必要があります。
 次に大切なのは、人間や人間以外の生き物の本質は霊であるということです。「霊主体従」などという言葉がありますが、これは霊的なものが本質であり霊が形となって現れているものが体であるという意味です。
 特に重要なのは、生きている人間(貴方であり彼や彼女である存在)は肉体である前に霊であるという事実です。この事実をどれだけ深く実感できるがが、とても重要なのです。また、死んでいる人間にも霊という実体が存在しており、単に思い出の中の人物ではないということです。
 よく、「亡くなった○○はみんなの記憶の中で生き続ける」などと表現しますが、確かにそれはそうなのですが、ちゃんと霊的な実体が存在し続けていることが分からないと、霊の影響で色々なこと(善いこと悪いこと)が起きるということが理解できないわけです。
 生きている人間に最も影響を与えるのは、実際のところ、生きている人間の想い(想念)です。生きている人間の想いを「生き霊」と呼びます。生き霊にも善いものと悪いものがありますが、悪い方には注意する必要があります。これは非常に強いもので、生き霊のせいで病気になったり怪我をしたりすることもあります。これは脅しているわけでも何でもなく、事実として人間の想念が他人に対して善悪こもごもの影響を与えているということを認識しましょうということです。
 そのような霊的な影響が自分に降りかかってきた場合、「これは霊的な原因で起こっている」と認識できれば、適切な対処が可能となります。普通の人は、なかなかそのような認識ができないので、色々不都合なことが起こってきても回避行動を起こせないわけです。それとは逆に、悪いことが起きた時に、何でもかんでも霊のせいにするというのも考え物ですが……。

神仏の祀り方について

 神仏をお祀りするとはどういうことか? これは分かるようで分からないことです。その最大の理由は、神仏が目に見えない存在であるからということです。
 神仏と言わずとも「霊」と言えば分るでしょうか? 霊は目に見えない存在です。
 さらに、難しい問題があります。
 神仏と一言で言ってしまえば、神も仏も一緒(いっしょ)くたになってしまいます。神と仏はどこが違うのでしょうか? 神棚と仏壇の違いとは一体何なのでしょうか?
 以上のような問題を、一個づつ順番に整理していきましょう。

◎神を神棚に祀る

・神とは
 「神」とは、肉体の人間から見て上位の存在であり、指導原理(=ガイド)と呼ぶべき存在です。
 守護霊、守護神(正守護神、副守護神の区別があります)と呼ばれる神霊です。産土神、神社のご祭神も含まれます。
 これらの神霊は、必要があれば、家の神棚にお祀りすることができます。

・神棚の設置方法

 自分の家で、これらの神さまを意識してお祀りするには、適切な場所に神棚を設置することになります。この場合は、神棚の中に適切なご神体をお祀りすることが一般的です。ご神体とは、神社からいただけるお札や、自然石、御幣、クリスタルや宝石の類などの神霊が寄り付く物実(ものざね)、依代のことです。
 実際の祀り方の詳細については、機会を改めてお話しすることになります。

我が家の神棚(榊は作り物だが問題はない)

◎仏を仏壇に祀る

・仏とは
 一般に「仏様」と言えば死者=ご先祖様を意味しています。「仏様」とは我々日本人の習慣的な呼び方で、正しくはご先祖様です。
 ただし「仏様」には「ご本尊」という意味があります。ご本尊とは阿弥陀仏、不動明王、大日如来、南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏などの信じる対象のことです。ご先祖とご本尊をちゃんと区別する必要があります。
 ご本尊の場合、魂が入っていれば、拝む人を守って下さいますが、魂が入っていない場合は効果は期待できないでしょう。他家の仏壇を見た訳ではないのでよく分かりませんが、我が家の場合、南無阿弥陀仏なので阿弥陀仏の西方浄土からの光が届くようですが、あまり明るくはありません。ご先祖の霊から出ている光の方が明るく元気があるように感じます。

・仏壇には霊が集まってくる
 これはあくまでも一般的な話ですが、仏壇にはご本尊・ご先祖の二種類の霊的存在をお祀りしているわけです。浄土真宗のような宗派では(南無)阿弥陀仏というご本尊しか祀らない(位牌は置かない)形式もありますが、霊的にはご先祖とご本尊の二種類が出てきます。実体的には主としてご先祖が出てきますので、注意が必要です。
 とにかく無数の先祖や縁者の霊が仏壇には登場します。そのことを先ず感じるべきです。仮に感じられなくても、観じる(イメージする)ことが必要となります。

我が家の仏壇(上が人間用、下はペット用)

・迷っている霊を供養する
 ここから、いよいよ本題に入っていきます。
 いわゆる「迷っている霊」、低い幽界から上の世界に上がっていけない霊がいる場合、自然の流れとして子孫に頼ったり、マイナスのエネルギーが子孫に悪影響を与えたりすることがあります。このような場合、ご先祖や有縁の霊が結果的に子孫の足を引っ張ることになります。
 これは、悪意から子孫に祟るといったことではなく、子孫に頼ってしまい、供養してほしい、つまり、上の世界に上げてほしいので、念が障りとなってしまうのです。頼られる子孫の方は、ご先祖のカルマをも浄化するという責任を負ってしまうのです。
 頼られる子孫の側に霊力があれば、問題なく浄まってしまうのですが、霊力がない場合いつまで経っても、訳の分からない病気になったりして何をやっても治らないといった現象になります。
 ご先祖に頼られている場合には、供養しなければなりませんが、これにはコツがあります。実際に霊を面前に呼び出して対面することが大切です。そうしないと、こちらからの供養の念が届きません。ちゃんと対面できさえすれば、供養の念は確実に届きます。どれだけ霊の存在を実感できるかが供養のポイントです。

◎「あじまりかん」で霊は昇天する

 霊と対面できているという前提で、宇宙一効果のある祈り言葉が「あじまりかん」です。親神さまが保証されていますが、必ず救っていただけます。
 「あじまりかん」で不成仏霊は必ず昇天します。
 その結果、今まで子孫を頼っていたご先祖が本当の意味での守護神となって下さいます。

 不成仏霊の問題を抱えている(かも知れない)と思われる方は、この記事で説明した方法で真剣に「あじまりかん」を唱えて下さい。
 いつまで唱えるかは自然に分かります。不成仏霊が成仏(神上がり)された場合は、仏壇の中が何とはなしに明るく暖かくなったように感じられ、ふわっとした感じの気が流れ出ます。例えば、お線香の煙が自分の方にスーッと流れてきたら、ご先祖の感謝の念が出ているということになります。霊風が流れ出すこともあります。その感じは何となく分かりますので、真剣に行じて下さい。必ず結果が出ます。
 付け加えますが、ご先祖への感謝の念を示すために、きれいなお水やお菓子・ご飯をさしあげて下さい。このように感謝を形に表すことで、霊的な存在に対して供養の念がしっかり届くことになります。

補足:ご飯などはすぐに下げて、後からいただくというのが通例です。筆者の
   実家ではそのようにしていました。施餓鬼などの自家以外の霊への
   供養の場合などを除いて、ご飯やお菓子は捨てずにいただきましょう。
   また、毎日ご飯を備えるという習慣がない場合は、しなくても可です。
   先祖を敬う気持ちが第一で、何をお供えするかなどの形式は気持ちが
   伴っていればOKですが、気持ちが伴わない場合はしなくてもよいです。
   我が家では普通はお線香だけです。


 我が家の例ですが、仏壇で「あじまりかん」を唱えると、ご先祖がズラリと参集され、感謝と喜びの念がウワーッと流れてきます。このような体験は、「あじまりかん」を知る以前にはなかったことです。毎日「あじまりかん」を仏壇で唱えましょう。あるいは、普段からご先祖を意識して「あじまりかん」を唱えましょう。

【参考資料】
「あじまりかん」は合気道と同じ

「あじまりかん」は合気道と同じ

神国日本(横山大観)

本当の話:「あじまりかん」は合気道と同じ/斎藤 敏一

作成:2018年3月13日、最終更新日:2018年5月5日


◎山蔭基央師と佐藤定吉博士のライフワークを継承する

 私は2014年頃、佐藤定吉博士の『日本とはどんな国』を丁寧に読み直すという機会を持ちました。そこには、「あじまりかん」の秘密の一端が書かれていたのです。
 それから二年余りの間「あじまりかん」を唱え続けました。その間、「あじまりかん」の言霊が常に私を導いてくれました。「あじまりかん」よりインスピレーションを与えられ、遂に二冊のあじまりかんの本が完成したのです。「あじまりかん」そのものが私に本を書かせたとしか言いようのない出来事が起こったのです。
 佐藤博士の『日本とはどんな国』の以下の一節が私に「あじまりかんは神の言霊である」という確信を与えました。

「その(「あじまりかん」を唱えている時の)全体から来る霊的波長は、
 
どうしても『神と人』とが一如になり、『神』が人の中から顕現する時の
 霊の響きのように受け取られる」

 佐藤博士はこの「神」の正体について一言も語りません。だがそれは、佐藤博士が山蔭神道の説く大元霊=造化三神のことを知らずして、昭和三十年代に亡くなられたためです。
 当時はまだ、山蔭基央師の著作群が存在していませんでした。だから、古神道的な神の認識方法が手近な情報として得られなかったのです。
 斎藤は、処女作『アジマリカンの降臨』の執筆を通じて、この『神』が大元霊であることを感得できました
 「あじまりかん」の言霊の本義=実体は大元霊なのです。すなわち、「あじまりかん」という言葉には本体霊が存在しており、その本体霊とは大元霊=造化三神=宇宙創造神=最高神=人類共通の神なのです。

 まさに「あじまりかん」は大元霊のコトタマなので、唱えると大元霊が(波動として)降臨するのです。山蔭神道が二千年の間伝承してきた「あじまりかん」は大元霊の言霊であったということなのです。
 「あじまりかん」は大元霊の言霊(言語的顕現)です。だからこそ、「あじまりかん」を唱えれば、全人類が宗教や信仰に関わらず無条件に救われるのです。今こそ「あじまりかん」の大いなる力を汲み出す時です。
 故山蔭師が預言された「新しい神話」(記事「あじまりかんは貴方を自由にする」を参照)とは、師の足下に初めから回答として存在していたのです。その回答とは大神呪「あじまりかん」です。佐藤博士によれば、山蔭神道は天皇神道とも呼ばれ、天皇行法の中核である「あじまりかん行法」の伝承主体でした。
 「あじまりかんと大元霊の関係」は「ものすごい真実」であるが、不思議なことに誰もがそのことに気付かなかったのです。
 故山蔭基央師の預言であった「新しい神話」の意味を発見したのは、山蔭神道とは無関係の、当時はソフトウェア・エンジニアであった筆者だったということになります。
 私はそのことに気付いた時、故山蔭師の遺影を思い浮かべて、「山蔭先生。ついに『あじまりかん』で大元霊が降臨しましたよ」と報告しました。
 故山蔭師には、筆者が三十代の時に一度だけお目にかかっているという間柄でしかないのですが、師の預言成就は筆者に委ねられたのです。
 もっとも、これは私が勝手に思っているだけで、山蔭神道より公認されている訳ではありません。また、公認されるべき必然性や必要性もないと考えています。すべては私が自分の責任で、正しいと信ずることを実行すればよいからです。
 大本預言・日月神示の「一輪の秘密/一輪の仕組」の正解は、誰も想像しなかった山蔭神道の大神呪「あじまりかん」に隠されていたのです。

◎「あじまりかん」の科学=神の実在を前提とする科学

 私には、この種の事柄(「あじまりかん」の秘密)を解明するための基本的条件が備わっています。
 この条件とは、「自分の心身を使って神さまなどの霊的事象を科学する」という生き方を意味しています。
 私は身を持って体験したことしか信じない質(たち)です。

 私が「身を持って体験したこと」とは、「身をもって神の存在を体験したこと」という意味です。この一節の意味を正しく理解していただくには、もう少し説明が必要になります。
 「自分の身体を使って」という以上、「そもそも神という目に見えない存在を体験したり認識したりすることが可能なのか」という疑問を抱く方が出てきても不思議ではありません。
 筆者は自分の身体で、神や霊などの目に見えない存在を波動的に検知できます。自分は昔からそういう体質なので、誰でも私と同じように感じることができると思っていたのですが、妻に自分が感じているものを確かめると「感じない」と言われることが多いです。
 だが、よくよく尋ねてみると「何となくこういう感じ」というものはあるようです。そういう場合、私が感じているものと基本的には一致しています。誰でもある程度は目に見えないものを感じることができるようです。
 ただ、私の場合、その感覚をいつも普通に使っているので、妻よりはハッキリ感じるという事情があるようです。多くの人は私の妻と同じように「神や霊を感じない」と思い込んでいるだけで、実際には感じているというのが正しそうです。気配や雰囲気と言えば、誰でも感じます。「気配や雰囲気を感じる能力だったら誰でも持っている」ということは正しいでしょう。この能力は実は霊的な能力なのです。
 次に、無用な誤解を避けるため、本書で筆者が使用する「科学」という言葉の定義を明確にしておきましょう。
 本記事における「科学」とは、「神の実在を大前提とする科学」です。「神」とは「目に見えないけど実在する貴い霊的存在」という意味です。すべては「神の実在」という一点からスタートします。
 だから、「目に見えない存在は信じない」という方には本記事の内容は不適合となってしまいます。現在の物質科学だけを信じる方には、本記事の論旨は苦痛かも知れません(そういう方は本記事を読むこともないから気にすることはないのですが……)。

 だが、現在の物質科学では測定できない目に見えない貴い存在があると考える方には、本記事の内容はすんなり受け入れることができると信じます。
 そもそも、私がどうして「科学」という言葉を使うかと言えば、「神さまの世界に接触するための経験的な知識の集積」が厳然として存在するからです。
 「あじまりかん」とは、古代より日本人が唱え続けてきた貴重な体験の集積でもあります。体験の集積とは、再現性の証拠です。「あじまりかんを唱えれば、不思議な力が働いて守られ幸せになる」という体験が積み重ねられてきたのです。神の存在が目に見えずとも、「あじまりかんは効く」のです。また、「あじまりかん」を唱えれば、誰でも神の存在を感じるのです。

◎「あじまりかん」は合気道と同じだ

 「あじまりかんの科学」とは、「あじまりかん実修者」が各々の肉体を使って体験を積み重ねてゆくという、掛け値なしの方法論です。

植芝盛平翁の演武(投げられた人は「自分がどうして飛ばされたのか分からない」と言う)

 合気道などの武道では、日々の修練が欠かせないものですが、「あじまりかん」の場合は、日々「あじまりかん」を唱えて自己点検することが武道の修練に相当します。合気道のように身体を動かす必要はありませんが、心と声を使って身体に「あじまりかん」を鳴り響かせなければなりません。この方法は武道には見えませんが、知らず知らずのうちに心身を使っているので、立派な武道なのです。
 この方法に従えば、合気道開祖の植芝盛平翁のような達人になってしまうのです。
 どうしてそうなるのか? それは次のような理由からです。
 「あじまりかん」を唱えれば唱えるほど、大神さまより御霊(みたま)をいただくことができます。これを「御霊のふゆ」と呼びます。元の意味は「神さまからお蔭をいただく」ですが、実際に御霊が増えるのです。だから、実修者は絶え間なく霊的な成長を積み重ねていくことができます。
 そして、いつの間にか、想像もできないほどの魂力(たまぢから)・霊力をいただいてしまうのです。「あじまりかん実修者」は知らず知らずのうちに、魂的に霊的に大きく育ってゆくのです。日々「あじまりかん」を唱え続けるという積み重ね、鍛錬の効果は武道の修練と全く変わらないのです。
 掛け値なしの体験の集積こそが科学なのです。それも「あじまりかん実修者」が自分の肉体を使って体験を積み重ねるという、武道と全く同一の仕組を使う科学なのです。それしか実効性のある方法は存在しないのです。
 そして、「あじまりかん実修者」は最終的に、大神さまと一体の神人になってしまうのです。これは合気道開祖の植芝盛平翁と同じ境地なのです。もちろんこれは、我々「あじまりかん修行者」が完全に翁のような武道の神さまと等しくなるという意味ではありません。ですが、翁と同じ世界に到達可能なのです。しかも、合気道とは違って、身体を痛めることもなく楽に達人の境地に入ってゆくことができます。
そのようにいいことづくめなのが「あじまりかん」なのです。

◎植芝盛平翁の「信仰の力が必要」の意味とは

 植芝盛平翁は生前、「信仰の力がないと天の浮橋に立つことができない」と説かれました。この「信仰の力」とは、霊の修行によって得られる霊的な力を意味しています。翁は修業時代に、大本の出口王仁三郎師に師事したり、古神道や言霊に関連した学びを重ねることによって、自身の霊肉併せた武道の完成を目指しておられました。
 肉体の方の修行に関しては合気道の型などを通じて体得可能です。しかし、霊の修行に関しては「信仰の力が必要」としか語らず、具体的にどうすれば霊の力を身に付けることができるのかについては語りませんでした。
 これでは、合気道の修行者が達人の境地を目指そうとしても、修行者が各自、自分で工夫するしかないわけです。肉体の修行だけでは合気道という武道は完全なものとはならないのですから、植芝盛平翁のような方が合気道の世界に数多登場することは困難だということになります。
 翁が言われている「天の浮橋に立つ境地」とは、霊肉共に修行ができて神人一如になった状態を意味します。そうなるには、霊の修行が欠かせないわけです。一体何をすれば、武道の修行者が霊の力を身に付けることができるのでしょうか?
 ここで、合気道等の武道の世界に身を置かれた方たちのために一言だけアドバイスします。

「『あじまりかん』を唱えれば霊の修行ができるので、植芝先生のような境地に到達できます」

 まあ、だまされたと思って「あじまりかん」を唱えてみて下さい。あなたの武道が内側から大きく変わってゆくことは間違いありません。そして、とことん「あじまりかん」を唱え切って下さい。あなたはいつの間にか「天の浮橋に立っている自分」を見出すことでしょう。神人一如の武道家が誕生するのです。

【参考資料】
一輪の秘密は既に戦前に解かれていた!?
あじまりかんは貴方を自由にする
あじまりかんは科学だ!
・『植芝盛平先生口述 武産合気』白光真宏会青年合気道同好会、1976年
・『アジマリカンの降臨

「一厘の仕組」は既に戦前に解かれていた!?

本当の話:「一厘の仕組」は既に戦前に解かれていた!?/斎藤 敏一

作成:2018年1月16日、最終更新日:2018年5月5日


◎正月早々ビックリしたこと(その2)

 「2018年は何か大きなことが起きる年になりそうです」と、先日の記事「これが大元霊のお姿だ!」で書きました。
 実はつい先日のことですが、もう一つビックリするような出来事がありました。仕事部屋の片付けを兼ねて屋根裏部屋でめぼしい本探しをしていた時のことです。『植芝盛平先生口述 武産合気(たけむすあいき)』という学生時代に購入した本を読み返す機会があったからです。その本は、昭和五十一年に白光真宏会青年合気道同好会から出版されたものですが、合気道開祖・植芝盛平翁の講話を口述筆記したもので、その内容の素晴らしさにビックリしたということなのです。翁は、こんなことを合気道同好会の青年たちに語っています。

 釈迦やキリストや孔子にまかせてはおけない。もう予言の時代は過ぎた。今はそれを実行に移すだけです。各々が天之御中主神(空即実相)にならねばならない。私達は一柱の神ではなく、八百万の神にみんな守護されているのです。これからは各々の天命を全うするように進んでゆくのです。皆さんお願いしますよ。

 ビックリしたのは、「大元霊=宇宙の大神さま」のお姿に関して話されている以下の一節です。

 一霊四魂三元八力の大元霊が、一つなる大神のみ姿である。大神は一つであり宇宙に満ちて生ける無限大の弥栄の姿である。即ち天なく地なく宇宙もなく大虚空宇宙である。その大虚空に、ある時ポチ忽然として現る。このポチこそ宇宙万有の根源なのである。そこで始め湯気、煙、霧よりも微細なる神明の気を放射して円形の圏を描き、ポチを包みて、初めて◎(ス、中央は実際には黒丸。以下同様)の言霊が生まれた。
 これが宇宙の最初、霊界の初めであります。
 そこで宇大は、自然と呼吸を始めた。神典には、数百億年の昔とあります。そして常在(すみきり)すみきらいつつ即ち一杯に呼吸しつつ生長してゆく。ゆくに従って声が出たのである。言霊が始まったのである。キリストが「はじめに言葉ありき」といったその言霊が◎(ス)であります。これが言霊の始まりである。

 記事「これが大元霊のお姿だ!」の前山さんからの報告にある「まるにチョン、台風の目のような、渦のような物が見えます」の「まるにチョン」のところに相当する「宇宙創生」のお話だということになります。
 植芝盛平翁の次ような一節はいかがでしょうか?

 合気道とは、宇宙の万世一系の理であります。
 合気道とは天授の真理にして、武産(たけむす)の合気の妙用であります。
 合気道とは、天地人、和合の道、とこうなるのであります。
 また合気道とは、万有の処理の道であります。
 合気道とは、言霊の妙用であり、宇宙みそぎの大道であります。
 この道を思惟する人は、宇宙建国完成の経綸に奉仕しなければならないことになっております。

 上記の文中の「合気道」を「あじまりかんの道」に置き換えて読んでみました。するとどうでしょう。私が拙著「あじまりかん」シリーズで伝えたいと思っていることになってしまうことに気付いたのです。「ああ、私と植芝盛平翁は同じなんだ・・・」という感覚です。

◎斎藤と植芝盛平翁の違い

 斎藤が『アジマリカンの降臨』で書いたことと植芝盛平翁が語っている内容は同じ世界から来ているということが分かったのです。つまり、植芝先生は「あじまりかん」すなわち、大元霊そのものの立場で語っておられるのです。それは当然でしょう。植芝盛平翁は、白光真宏会の五井師をして「植芝先生は神の化身だよ」と絶賛せしめた方なのですから。植芝先生の教えも最高でないはずがありません。
 「暗に斎藤の言っていることが最高だと言っているみたいだ」という声が聞こえてきそうです。はい、斎藤が語ることは最高だという気持ちがあることは否定しません。なぜなら、私は「あじまりかん」で大元霊が降臨するという話を語っているのですから、理論的には最高だと思っています。
 ですが、大きな違いがあります。武産合気という言葉からも分かるように、植芝盛平翁の道は、武の道です。一方、斎藤が説いている「あじまりかんの道」は普通人の実践可能な道です。それに、極めて簡単です。
 さらにもう一つの違いがあります。植芝盛平翁と同等の方は合気道からは出ていないのではないかということです。つまり、植芝先生と同レベルの神格を生きている間に体現された方は武道界にはいないのではないかと思うのです(もしおられたらごめんなさい)。植芝先生の『武産合気』の本を読んで「スッキリ分かった」と明言できる方は非常に少ないのではないでしょうか。神の化身が口述されたお話は極めて高度な悟りの世界なです。おまけに、その内容を頭で分かったとしても武道の世界のことですから、行が伴わなければ分かったことにはならない訳です。だから、理屈が分かってもおいそれとは植芝盛平翁の境地には到達できないということになります。こういう方は不世出、つまり、後にも先にも翁ただ一人でしょう。合気道で千人、万人の植芝盛平が輩出するということはあり得ない訳です。
 これはあくまでも斎藤の見解ですが、「あじまりかんの道」の場合は、誰でも斎藤と同程度(神人一如の自覚に達すること。斎藤はまだ発展途上なので、悟りのレベルは最高ではないです。残念ですが・・・)にはなれると考えています。その理由は、「あじまりかんを唱えると無条件に大元霊が(波動として)降臨する」からです。すぐに立派な境地になれる訳ではないですが、無心に「あじまりかん」を唱え続けることによって、徐々に「神人一如」の自覚ができてきます。だんだんと普通の人から神さまに近い人へと成長し続けることができるのです。
 「あじまりかんの道」は、古神道の言葉をあまり使っていない(使う場合は必ず解説しています)ので理論が一般向けで分かり易いはずです。そのため、我々のような普通人でも実践し易いと思います。「あじまりかん」を唱えると神の直接体験が可能です。ですから、誰でもその気になれば神と一つになれるのです。その点が「あじまりかんの道」が易行道だという最大の理由です。
 いずれにせよ、翁も斎藤も「最終的に天の浮橋(後述)に立つ神人とならなければ、神の経綸の大業は果たせない」という考えです。この「天の浮橋に立つ」心境になるには、それなりの修行が必要です。私自身、そこまで行っているかどうか心許ないのですが、少しでもそこに近づきたいと日々努力しています。

◎「天の浮橋に立つ」ということ

天の浮橋に立つイザナギ・イザナミの二神

 植芝翁の教えで特に印象に残る言があります。それは「天の浮橋に立って」という言葉です。図のナギ・ナミ二神は天の浮橋に立たれており、これから国産みをなさろうとしている場面です。
 重要なのは、天の浮橋に立つとは「御親=大元霊=大神様に帰一した状態」であるということです。キリスト教的な言い方をすれば「自分の十字架を背負ってイエスに着いてゆく」ということです。私はキリスト教の十字架という言葉が好きではないので、「身を捨てて天地の十文字の交点に立つ」というような表現を使います。とにかく、最後はそこに行き着くのです。そこからでなければ、天地の経綸は進めてゆけないのです。
 翁は常々「天の浮橋に立って事を為すべし」と説かれています。このように、古事記等の神典に登場する言葉を使って道を説かれているのが植芝盛平翁なのです。古事記等に馴染みのない方にはちょっとしたハードルかも知れません。私も学生時代に『武産合気』の本を読んでも、何となく雰囲気しか分からなかったという記憶があります。ですが、四十年後の今、「あじまりかん」の秘密を解く過程で古神道の人間観や世界観を学んだ結果として、「ようやく植芝盛平翁の世界に近づくことができた」と嬉しかった訳です。
 斎藤は、「あじまりかんの道」によって「我即宇宙」の自覚を持った「天の浮橋に立つ神人」が全世界で多数輩出すると考えています。
 このことは、近日中においおい分かってくることだと思います。

◎「一厘の仕組」と植芝盛平翁の関係

 さて、本記事タイトルの「『一厘の仕組』は戦前に既に解かれていた」の意味はこうです。
 植芝盛平翁は戦前に、神そのものとなる最終段階の修行を経て「自分が神そのものとなったこと」を自覚されたと言われています。「神そのもの」の「神」とは大元霊=宇宙の大神さまという意味です。自分が宇宙の神さまと一体になってしまったのが合気道開祖である植芝盛平翁だったということになります。
 本記事で取り上げた書名『武産合気』とは、武による合気の産霊(むすび)という意味のかなり難しい言葉です。これは、大元霊(=宇宙の大神)と一つに成り切ったところから武による産霊(むすび)の御業を遂行するというものです。そんなことを言われても「エッ、何のこと?」と聞き返されかねないほど高次元の、考えたこともないような使命を、植芝盛平翁は戦前の若かりし頃に授かったのです。
 その時、植芝師は大本神諭で言われるところの「一厘の仕組(=一輪の秘密)」を解き切って、神様そのものの立場に立たれたのでした。植芝翁は神の化身となられた訳ですから、この宇宙の「一厘の仕組」そのものとなってしまわれたということなのです。翁自身「私のような人間は人類史上いまだかつていなかった」とおっしゃっています。
 かなり有名な「パインタラ事件」というのがありました。1924年、翁が41歳の時、大本の出口王仁三郎師のモンゴル行に着いて行って、危うく死刑となるところまでいったが、パインタラに駆けつけた日本領事館員の交渉により処刑は中止となり九死に一生を得たという出来事です。翁はその時には、境地としては出口王仁三郎師以上のところまで行っていたと考えられます。翁は武の世界で道を究め、宗教の世界では王仁三郎師の陰に隠れてしまっているのですが、霊位は王仁三郎師以上だったかも知れません。
 植芝盛平師は「一厘の仕組」をただ一人黙々と合気の世界で行じられた、不世出の神人だったのです。残念ながら同格の後継者はいません。翁から「五井先生は祈りのご本尊です。私はいつも五井先生と霊的に交流しており、その素晴らしさはよく分かっています」と言われていた白光真宏会の五井昌久師も同様です。五井先生と同等の人が輩出しなければならないのですが、そのようにはなっていません。
 でも、それでは駄目なのです。ミロクの世を創るには何千、何万の神人が必要なのです。つまり、数多の植芝先生や五井先生が必要なのです。そういう道でなければ意味がないのです。「植芝先生は偉い」とか「五井先生は素晴らしい」という人がどれだけいても駄目で、みんなが神格を得て神さまになって、みんなでミロク世=世界一家の地上天国を創らなければならないのです。そういう道は今まで皆無だったのです。「あじまりかんの道」とはそのような方法論でありシステムなのです。表現は俗っぽいですが、文化系でも体育会系でもなく、理科系・技術系・システム屋の発想が必要となるのです。
 そこで斎藤が登場したという訳です。筆者の仕事は、その「一厘の仕組」をペンによって「あじまりかんの道」として、誰でも容易に踏み行えるように、システムとして科学的に、技術的に明らかにすることにあります。システムにならない限り、あるいは、スマホのように一般化しない限り、神さまを何千人、何万人も育て上げることは不可能なのです。私が説いている「あじまりかんの道」とは、そのようなものなのです。
 私と植芝盛平翁は「一厘の仕組」との関わりにおいて、方法は違いこそすれ、同じ道を歩んでいるということになります。植芝翁という偉大なる神の化身に一冊の本を通じて出会ったに過ぎないのですが、読んでいるだけで自分が浄められ高められる心地がします。また、何とも言えない使命感のようなものを感じ、心身がキュッと引き締まる昨日今日なのです。

【参考資料】
・『植芝盛平先生口述 武産合気』白光真宏会青年合気道同好会、1976年
・『アジマリカンの降臨

 

これが大元霊のお姿だ!

本当の話:これが大元霊のお姿だ!/斎藤 敏一

作成:2018年1月12日、最終更新日:2018年1月14日


◎「あじまりかん」を百万回唱えた方からの報告

 2018年は何か大きなことが起きる年になりそうです。
 年が明けてからのことです。『あじまりかんの法則』を読まれた福島県の前山さんから、次のような素敵なメールが舞い込みました。

 新聞の広告でしたか? 「あじまりかんの法則」を知りました。 「ああこれだ!」と思い、さっそく本を注文しました。(届くまで1ヶ月近くかかりました。)
 少しずつ、あじまりかんを唱えていましたが、きちんと数えて100万回に挑戦してみようと思いました。
 指折り数えたり、カウンターを使ったり、9月23日から始めて、12月27日に100万回を数えることが出来ました。

 「100万回あじまりかんを唱えた人がいつ登場するかな」と楽しみにしていたのですが、遂に登場しました。しかも、ちゃんとカウンターを使って数えられたということです。
 「あじまりかん」を唱え続けている間には、「臨時収入があったり、困ったことがあっても難なく済んだり、鼻血が出たり」と色々なことがあったそうです。
 百万回唱え切ったというのはすごいことなので、「おめでとうございます」という返事を書きました。さらにそのメールには、次のような続きがありました。

 目を閉じるといつも、丸にチョン、台風の目のような、渦のような物が見えます。
 それが大きくなって、白や金色に輝いて、熱いようだったり。 このまばゆい光とエネルギーをどう言葉であらわしたらいいかわかりません!
 夜九時に斎藤先生に意識を向けても、やはり同じような光✴や、エネルギーを感じます。

 「まるにチョン、台風の目のような、渦のような物が見えます」という部分を読んで、思わず以下のような説明を書きました。

 前山さんがご覧になっているものは「大元霊」と呼ばれる「あじまりかん」の本体である宇宙創造神のお姿です(人によって見え方や感じ方は色々です。無理に解釈する必要はありません)。
 宇宙創造神がご自身を分けられて一人一人の人間の直霊(なおひ)を産み出されたのです。「あじまりかん」を唱えることによって、無条件に宇宙創造神が降臨されるので、あなたのような体験をされる方も出てくるのです。感謝で受け止めていただければ結構です。

 私はいつも大元霊の波動を感じていますが、前山さんのように具体的な霊視はできないので、大いにビックリしたわけです。ビックリした訳というのは、拙著『アジマリカンの降臨』の中で、次のような大元霊の姿について書いていたからです。

宇宙の構造(渦巻き構造の例)

 「あじまりかん」という言葉は、宇宙を創造し続ける渦(うず)々(うず)しい神の姿を表現していることが分かる。
 写真「一輪の蓮華」と図「宇宙の構造」をご覧いただきたい。世尊(直接的には釈迦であるが、蓮華蔵世界の中心者である久遠の毘盧遮那仏の象徴である)が一輪の花を拈(ひね)って示そうとした真意が明らかになる。一輪の花の形が重要である。花には中心(=花心と軸)が存在する。同じように、宇宙において普遍的な「渦巻き」構造にも中心が存在する。釈迦は花を拈って見せたと言われるが、これは「中心を持った渦巻きを代表とする回転運動系」を示す所作だ。中心を持った物体の集合は回転を伴うが、回転することによって渦巻き構造(あるいは回転運動系)が維持される。大本・日月神示が語る「一厘の仕組」とは、宇宙を成り立たせている渦巻きの法則そのものだったのだ。

 前山さんのレポートを読んで「これはすごいぞ。絵に描いていただこう!」と思い、お願いして絵を描いていただいたのです。

◎これが大元霊のお姿です

 前山さんから送っていただいた画像(見たままをクレヨンで描いていただきました)をご紹介します。

丸にチョン、台風の目のような、渦のような物
それが大きくなって渦巻いている
白や金色に輝いて、熱いようだったり–造化三神の姿が現れている

 前山さんは、「あじまりかん」を唱えている間、いつもこのようなイメージをご覧になっているということです。
 新年早々すごいものを見せていただきました。
 前山さんには、この場を借りて感謝いたします。どうもありがとうございました。

 

【参考資料】
・『あじまりかんの法則
・『アジマリカンの降臨

天皇行の『あじまりかん』

富士の日の出を拝む

「一輪の秘密」外伝:日本とはどんな国解説:天皇行の『あじまりかん』/斎藤 敏一
作成:2018年1月8日、最終更新:2018年5月5日
 
●『日本とはどんな国』(佐藤定吉著)について
 
 佐藤定吉博士(1887-1960)の遺作『日本とはどんな国–秘められた人類救世の原理』は、私のあじまりかん関連著作において決定的な影響を及ぼした本である。
 何が決定的だったかと言えば、山蔭神道が「天皇行法」を伝承する古神道系の教派神道団体であり、別名「天皇神道」とも呼ばれていることを知ったからだ。
 「天皇行法」という名前については、故山蔭基央師の多くの著作のどれかで読んだことがあるかも知れない。だが、その意味も含めて理解したのは佐藤博士の前掲書を読み返したからこその出来事であった。
 天皇行法の実体が「自霊拝」と「あじまりかん」であることが初めて分かり、それらの行法に重大な意味「日本国家成立と存続に関わる根本的な存在価値」があることを初めて公開したのが『日本とはどんな国』だった。

 以上を前置きとして、『日本とはどんな国』の本文を読んでいくことにしよう。同著の白眉とも言える内容は「第一編 聖書相応の国日本」の以下の章である。

 第四章 天皇行法(天皇神道)
 第五章 天皇行の核心
 第六章 天皇行の神髄
☆第七章 天皇行の『あじまりかん』

 以降、「第七章 天皇行の『あじまりかん』」の全文を掲載する。文中の茶色部分「例:(原子核に喩えるならば、「陽子(プロトン)と中性子(ニュートロン)」とすべきであろう)」は、斎藤の補足説明である。

 天皇行の核心–『日本とはどんな国』第一編より
 

第七章 天皇行の『あじまりかん』

(一)未開の扉

 天皇行のうちで、最も神秘なものとして、畏(おそ)れ崇(あが)められている言葉がある。それが『あじまりかん』という言葉である。その言葉は、肇国の太古から宮中にあって現在の念仏名号や、題目のように、唱名されて今日にいたっている。
 鎌倉時代に勃興した日蓮や、法然、親鸞の念仏の唱名は、宮中に行なわせられる『あじまりかん』の唱名が、民間に洩れ、各宗が南無妙法蓮華経、また南無阿弥陀仏に転化させたものと思われる(佐藤博士の「あじまりかん」の唱名についての推察は、意外に、日本的な仏教宗派の発生、特に鎌倉仏教の発展に関する秘められた事情を言い当てている可能性が高い。今後の研究課題とすべきであろう)
 この『あじまりかん』は天皇を中心に、熱心に唱名され、天皇行のうち、自霊拝よりも、さらに重んじられ、尊敬された言葉であるという。
 しかるに、不思議なことは、すでに幾千年もその歴史が経過しているのに、未だ誰人もその言葉の意味を解したものがないということである。
 わからぬままに幾干年の間、唱名の声たえまなく、今日まで『神のことば』として仰がれてきた。
 近代になり、この言葉は梵語から転化したのではあるまいかと考え、学者に研究してもらったが、どうもそうではないらしい。その語源が何であるのか。一つの謎になっていたのである。
 著者は一九五七年の夏、初めてこの天皇神道のことを承わり、その中心核にあたる『あじまりかん』の言葉を聞き、その深遠幽玄なる行法の雰囲気の中に、これが何を意味するのであろうかと、思っていた。
 その全体から来る霊的波調は、どうしても『神と人』とが一如になり、『神』が人の中から顕現する時の霊の響きのように受けとられる。(傍線は斎藤。斎藤も佐藤博士のこの霊的認識と全く同一の体験をした。佐藤博士は間違いなく、「あじまりかんが神の顕現である」ことを直覚していた。斎藤は佐藤博士のこの一節で、「あじまりかんという言葉が尋常のものではなく、神に属するものである」ことを確信したのである)
 かく祈り求めている時、霊調が『ピタッ!』と合ったと思う時に、一つの光が、心をかすめた。それが『ヘブル古語の転化ではあるまいか』ということであった。
それで早速ヘブル語源と日本語の関係について研究しておられる在米の親しい牧師の、川守田英二博士に、その研究を依頼した。約一年半の後に、その研究の結果のレポートが来た。
 それには、「周到な研究を試みた結果、自分としては、『世の罪を負う祭司長』という意だと断定したい!(これが大間違いであった!)ということであった。そしてヘブル語の語源の註釈が書き添えてあった。
 博士は一九二五年、シアトルの一牧師在任の当時から、私の親しい信仰の友であり、その頃から、日本民謡の中に残存しているヘブル語の研究をしておられた。近来、『日本ヘブル詩歌の研究』という尨大(ぼうだい)な著書二巻を公刊した。その書の中で、古代日本の言葉の中には、数々のヘブル語が残っており、それが日本各地に民謡として伝えられているということを同博士は立証している。最近さらに新著を発表し、それには聖書歴史の密接不離の関係を明らかにしておられる。
 私は過去三十数年来の同博士との親交によって、彼の言語学上の研究に信頼をおいており(実際のところ、川守田氏の研究については、ユダヤの研究者であるM・トケイヤー師らが「学問的に信頼性が乏しい」と断ずるものであり、信を置いてはならないものであると思われる。斎藤の理解では、「あじまりかん」は日本語である! また、「あじまりかん」の日本語の意味については、機関誌『あじまりかん通信』創刊号で掲載した)、また筆者は、川守田博士とは別角度の現実面から、同様の真理性を保証し得ると信じている。
 今回の『あじまりかん』という言葉の研究は、まだ短期間であるから、『まちがいない!』と確定するには、もっともっと明確な実証の材料を整える必要がある。それで只今では、一つの仮定として余裕を残しておきたい。

(二)奥義の極致点

 天皇行法の内部構造から見て、『あじまりかん』という言葉の内容は、どうしても、自霊拝の行法に熟達したのち、その行法の奥義に入りこんで、心魂が明亮珠のように澄み切った時、うつりくる天の大御心の『すがた』であることであった。
 聖書に『心の清き者は幸福なり。その人は神を見うべし』(マタイ伝第五章八節)とある。
 自霊拝行法は、これを聖書的な表現をとると、このマタイ伝五章八節の『みことば』の在り方に、心を保持する一つの方法であると見られる。
 パウロのごとくに、罪より解き放たれきよめられて、キリストの中に自らを掻き消して、神をおのが心の中にうつす明鏡になる筋道もあるが、イエスはそうした筋道を取らないで、直截的に心を清くして神をうつし出す道を、弟子たちに語っておられる。またおのが内部から神の光の燦然と輝き出ている在り方を指示し、『われを見し者は、神を見しなり』と叫んでおられる。
 パウロ式でなく、イエスの直截的な方式の方が、日本の自霊拝の行法に近いかと思われる。そうした行法によって、映し出される『神』の大御心の『すがた』が、すなわち『親心の愛』(神が親であるというのは完全に日本的な認識のあり方であり、ユダヤ教には全く見られない。ただしイエスは「父なる神・天の父」という表現を多用しており、日本的な神の認識のあり方に近いが、神を「父」=男性神格で表現している点が気になる。斎藤の認識では、最高神は父神と母神を統合・超越した存在であるから、イエスの神認識は少なくとも最高神には到達してない。一方、「神が国や人、ありとしあらゆるものの親であること」は、人類にとって極めて重要な神の認識方法である。さらに、日本の天皇行=「自霊拝」と「あじまりかん」を降された神は、造化三神=大元霊=天津渦々八弥津奈芸天祖大神(あまつうずうずしやつなぎあめのみおやのおおかみ)=実神=根源神=宇宙創造神=認識可能な最高神なのである。また、その愛は広大であり、あらゆるものを産み出し活かし給うご先祖様・父母・肉親の慈愛である。天皇行の根本にはこの究極の神がおられ、日本建国と同時に天皇行も降されたのである。「日本が神の国である」というのは全く真実なのであり、この真実性は天皇行=「自霊拝」と「あじまりかん」によって裏付けられるのである。なぜなら「あじまりかん」という言葉の実体こそが大元霊なのであるから、日本が神の国の中の中心の神の国であることは当たり前のことなのだ。宇宙創造神が日本の本当の神なのであるからこそ、日本は神の国であり、この地球の霊的な中心たるべき資格と権威を太古より備えているのである)である。
 父母の愛の最も端的な表現が、すなわち『子供の罪責を負う親心の愛』である。
 この『愛』が、神の本質の像である。その神の『愛』の『うつし身』となって、自らが他の人の罪責を身に引きうけて、救いの手を差し伸べる者となる。その実践の道が、『あじまりかん』の行である。
 これを聖書の言葉で表わすと、すなわち『十字架を負う神の小羊』となることである。
 この『十字架を負う神の小羊』となり、すべての人を滅亡から救い出す一事が、日本国家の根本生命であった。それが日本国家の唯一の存在使命であった。
 主キリストは、ついに『世の罪責を負う神の小羊』となり、『あじまりかん』の行者となって、カルバリ山上、十字架上に死を遂げられた。そこから神の全人類への贖罪の巨手は動き出して来た。今日のキリスト教はそこから始まったのである。
 ところが、日本に使命づけられている『あじまりかん』は、個人救霊に目的はない。それはすでにイスラエル民族の方で、イエスの十字架によって完成している。日本の『くに』の負う使命は、個人救霊でなく、一国家、一民族を一単位の生命体にして、神に献身させ、霊なる神の『うつわ』にさせることである。
 この使命の準備のために、今日まで三千年の歴史が、地上の球根のように培われて来ている。球根であったから、これまでは世界の前に、あらわれなかったのである。天皇行が今日まで隠されていた理由がこのところにある。
 すなわち知る。かつて神は、キリスト・イエスを十字架につけて、神の巨力誘導の源泉となさせられた。日本という『くに』も、イエスにならって、『国家』が一人格となって、十字架を負う神の小羊になる『くに』であった。(この「十字架」という言葉の意味をキリスト教的に捉えることは間違いのもとであると考える。斎藤的な解釈を次節「(三)人の十字架と神の十字架」で掲載している)
 そういう『あじまりかん』の『くに』があらわれると、神はその『くに』を媒体にして、世界国家群の上に、聖霊を春雨のごとく降り注がせられるであろう。かくて全世界の上に、始めて国家と国家の交流が、神ごころのままに、正順の『すがた』に立ち帰るのであろう。
 こうして救われた国家と救われた国家の交流の起るところに、待望の世界平和と、人類幸福が結実することになるであろう。
 日本の『くに』という一存在は、そうした時代と、そうした全世界の救いの在り方のために太古から選ばれて、今日まで神の聖手によって守護され、導かれた国であった。
 ゆえに、これまでの世界状勢のように、個人と個人の『つながり』だけの文化に止まっている時代にあっては、その国の出現は尚早で、登場の時機ではなかったのである。
 つまり、日本という一人格の国家は、国家と国家のつながり方が、世界の中心問題になるまでは、楽屋裏で待機させられていた国であった。
 そして、この待機の期間中、『真に生くることは、神のために死する一事である』ということ、また『この死の中にこそ、真実の復活と永遠の勝利がある』ということ、また『その国を一つの媒体として、神の巨力は誘発されるであろう』ということ。
 こうした神界の厳そかな真理を深く体得させられ、その訓練を与えられてきた国、それが日本であった。

(三)人の十字架と神の十字架

 『あじまりかん』は、建国の当初、歴代天皇の中にも、明かに顕現されているが、近年では明治天皇の御詠の中に、極めて明白に、そのことが全国民の前に表現されている。
 『罪あらばわれをとがめよ天つ神、民はわが身の産みし子なれば』
 この大御心は、明らかに太古よりの祭祀として。年々歳々、六月と十二月に、宮中で行ぜられる大祓行事の中心生命である。その大御心をみうたによみ給うたものが、この御歌であると拝察される。
 この明治天皇の大御心を、今度の敗戦に際し、今上天皇御自身が、マッカーサーの前に、一身に敗戦の責めを負い給い、御自身が極刑をお受けになるから、国民を饑餓から狡い、『すべての戦犯者を解放してもらいたい!』と御自ら首の座につき給うた。
 この天皇御自らが、罪責を負う死の御覚悟の『まこと』を現わし給うたので、マッカーサーの心は一転し、苛酷な占領政策を緩和することに、急回転させられたのだと承知している。
 日本にとっては、古来未曽有の敗戦という非常時に際会して、日本国家の真生命の光が、闇夜にきらめく天の光のごとくに、『あじまりかん』の光が、現実に世界の前に輝き出たのであった。
 イエスにとっても、カルバリ山上、十字架の死というせっぱつまった悲惨な出来事の闇黒に立ったとき、突如として『救主キリスト』として一大光明が燦然とかがやき出たのであった。(「十字架」という言葉はキリスト教に限定された意味で使われることが非常に多い。結果として、「十字架」の意味がイエスの磔刑に固着されてしまうので、本来の意味から離れてしまう。「十字架」とは本来、縦=天と横=地の調和を意味している。宇宙・世界の姿を象徴化したものであると言える。これは決して犠牲を意味するのではなく、神の国の義が成就するという意味になる。イエスは十字架にかかることにより、人類の犠牲になったのではなく、神の国の義が成就したのである。このようにキリスト教の十字架の理解はイエスの磔刑という恐ろしい形式に完全に同化してしまい、本来の意味が失われてしまった。イエスは全人類の救主となっているらしいが、それはキリスト教のついた嘘である。イエス個人には全人類を救う力も権能も与えられていない)
 人が神のために十字架につく時にのみ、その人の上に、神の十字架が、燦然とかがやきわたる。これが神界の原則である。
 また、こうもいえるであろう。『神のために十字架につく者にのみ、神の十字架にある贖罪愛が、その人の所有になると。この一事は筆者の生涯を通じて、明確に保証される一法則である。
 十字架のないところに、神の栄光は拝されない。十字架の暗夜の後にのみ、復活の曙光は待たれる。
 『あじまりかん』のあるところにのみ、神の栄光と、神の稜威が仰ぎ見られる。このことは東西両洋の歴史を通じて、天日のごとき燦れる光明である。誰人もこれを否みうるものはない筈だ。
 日本の『くに』は、『あじまりかん』のくにであった。日本の天皇は、『あじまりかん』の行者であられる。
 天皇御自らは、断じて『神』ではない。神の贖罪愛のために、一身をささげておられる『あじまりかん』の行者であり、十字架を負う神の小羊でいまし給うたのである。
 全世界万民が、この天皇の御本来の御すがたに眼を止めて、その神の大愛のかがやきに心の焦点を合わされるよう、心からのぞむ。
 これを要するに、天皇は日本という『くに』の『いのち』の美しき花である。さらに、また日本とよばれる『くに』は、一つ神の『いのち』の花であった。花の蔭には、天的な幹と根のあることを忘れてはならぬ。天地創造の活ける『神のいのち』こそ、その根であったのである。
 日本を正しく理解するには、常にこの一点に考察の焦点を合わせる要がある。そうでないと、日本に関する批判の一切は、中心を外したエクセントリック(Eccentric)なものになるであろう。

(四)自霊拝と『あじまりかん』の相互関係 (*)

 日本国家にとって、一般文化は人の眼に見ゆる美花であり、神はその幹、天皇行はその木の全体を生かす根の『いのち』だ。
 また今一つの例でいうと、外形上の一般文化は、金銀などのごとき外に見ゆる元素の外形にあたり、神道はその元素内部の分子や原子にあたる。また、『天皇行法』は、まさにその『原子核』にあたる。
 そして『あじまりかん』は、原子核内の『プロトーン』、自霊拝は『ニュートロン』にあたるといってよいであろう。
         ×          ×          ×
 さらに、白霊拝とあじまりかんの相互関係は、次のようにたとえられるであろう。
 自霊拝は、明亮珠のような望遠鏡の『レンズ』であり、『あじまりかん』は天の光である。透明な『レンズ』を通して、内部に透入してくる天の光を仰いで、望遠鏡の存在目的は達せられる。

 自霊拝修行も、まことに尊い行法ではあるが、これは天の光をわが『心』の内部に正しく導入する方法であって、目的ではない。
 望遠鏡の造られた目的は、『レンズ』によって、天の光を焦点化し、天体のすがたそのままを如実にその中にうつし出す一点にある。
 そのためには、『レンズ』をいささかの曇りもない明鏡にする必要がある。
 心が明鏡になれば、おのずから天の光は、力強く心に注ぎ込まれ、天の側の『いのち』が、そのまま『うつし身』となってあらわれてくる。そこにおのづから神御自身の活動が、その人の中にあらわれる結果を産む。
 この神の活動の『あらわれ』が、すなわち『あじまりかん』である。
 神の本性は、『贖罪愛の母心』である。このことは、聖書が、これを明白に立証している。ゆえに、この神の光が、人の心に注ぎこまれると、おのづから自己が消えて、『世の罪を負う神の小羊』の貴い『すがた』があらわれてくる。
 この贖罪愛の『いのち』こそ、実に『神』自らの本性であられる。
 このことは、聖書がキリストの十字架を通して保証するところであり、天地は朽ち果つるとも、永遠に変りなき神の保証である。
 かくのごとく、贖罪愛が、神の『いのち』であることは、聖書がキリストの血判をもって、保証するところであるが、不思議なことに、その『贖罪愛』が、日本の『くに』の『いのち』として発芽して来た。
 そして、その『いのち』が、天皇の『あじまりかん』として、幾千年を通じて花のように美しく咲き匂うているのがすなわち日本歴史である。何とかがやかしい神の栄光と摂理ではないか。
         ×          ×          ×
 日本の『くに』が、澄み切った明鏡のような魂になる国であることは、太古からよくわかっていた。
 『みそぎ、はらい』の行事、また神社の一般行法は、このためにそなえられていた。これは天皇の自霊拝の行法を一般化したものである。
 日本は本来、『あじまりかん』の国、すなわち十字架の贖罪愛を実践する国であった。
 力をこめていう。日本は自らが、十字架の贖罪により、罪赦されて喜んでいる程度の国ではなかった。進んでイエスと共に、世の罪を負い、神の救を他にもたらす大乗的な、十字架の『いのち』の国であった。
 この、国の在り方が、天皇行にあらわれた日本の『くに』の本質的在り方である。すなわち、『あじまりかん』の国が、日本国家の本領であった。
         ×          ×          ×
 筆者は最近この事実を知り得て、多年自分の心の中にわだかまっていた一切の暗雲が、からりと晴れ、まことに大空に聳ゆる富士の高嶺を仰ぐような気がする。
 というのは、これまで、キリスト教と日本国体の間に、何かしらん。お互に矛盾するものがあるところを見出し、越え難い対立感の中にあった。ところが、この燦たる『あじまりかん』の光を仰いで、入信以来、過去五十数年の黒雲は、全く晴れわたって了った。何というすがすがしさであろうか。これこそ、筆者にとって
 『あな 天晴れ
  あな たのし
  あな おもしろ
  あな さやけ』である。

(*) 自霊拝とあじまりかんとの関係
 佐藤博士の説明は合っているのだが、キリスト教的表現が多すぎて分かり難いところが残念である。以下、斎藤流に説明しよう。


 自霊拝とあじまりかんは全く異なる修行なので、車の両輪のような関係になる。
 あじまりかんで神の顕現・降臨を受けて、自霊拝で顕現・降臨した神(自分の姿として顕現しています)を拝むという関係でである。
 修行の目的や方法が異なるので、どっちがどうだという比較はあまり意味がない。また、どっちを先にやるのかということも明確には決められない。筆者の場合は、先に「あじまりかん」、次に「自霊拝」であった。しかし、これは結果論であり、決まり事ではない。
 大切なのは、「自霊拝」にしても「あじまりかん」にしても、その意味をよく理解して実践することである。どちらもとても素晴らしい修行であるから、毎日続けることで貴方の神性が日に日に開発されることは間違いがない。
 また、「自霊拝」には「自霊拝行者の神さま度判定」という重要な役目がある。鏡に映った自分を神として拝むのであるから、自分が本当に神さまになっているかが分かるのだ。「あじまりかん」を唱えることで神さま度がアップするから、自分がどのくらい神さまになったかがチェックできるのである。

参考:日本とはどんな国?:天皇行法(天皇神道)
   日本とはどんな国?:天皇行の核心
   日本とはどんな国?:天皇行の神髄

 
天皇行の『あじまりかん』 完
 
 

 

 
 
 
 

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天皇行の神髄

富士と桜

日本とはどんな国?:天皇行の神髄 /斎藤 敏一
作成:2018年1月8日、最終更新:2018年5月5日
 
●『日本とはどんな国』(佐藤定吉著)について
 
 佐藤定吉博士(1887-1960)の遺作『日本とはどんな国–秘められた人類救世の原理』は、私のあじまりかん関連著作において決定的な影響を及ぼした本である。
 何が決定的だったかと言えば、山蔭神道が「天皇行法」を伝承する古神道系の教派神道団体であり、別名「天皇神道」とも呼ばれていることを知ったからだ。
 「天皇行法」という名前については、故山蔭基央師の多くの著作のどれかで読んだことがあるかも知れない。だが、その意味も含めて理解したのは佐藤博士の前掲書を読み返したからこその出来事であった。
 天皇行法の実体が「自霊拝」と「あじまりかん」であることが初めて分かり、それらの行法に重大な意味「日本国家成立と存続に関わる根本的な存在価値」があることを初めて公開したのが『日本とはどんな国』だった。

 さて、以上を前置きとして、『日本とはどんな国』の本文を読んでいくことにしよう。同著の白眉とも言える内容は「第一編 聖書相応の国日本」の以下の章である。

 第四章 天皇行法(天皇神道)
 第五章 天皇行の核心
☆第六章 天皇行の神髄
 第七章 天皇行の『あじまりかん』

 以降、「第六章 天皇行の神髄」の全文を掲載する。文中の茶色部分「例:(原子核に喩えるならば、「陽子(プロトン)と中性子(ニュートロン)」とすべきであろう)」は、斎藤の補足説明である。

 天皇行の核心–『日本とはどんな国』第一編より
 

第六章 天皇行の神髄
 
(一)国家生命の中核
 
 天皇行の真髄は、『自害拝』と『あじまりかん』の二つから成る。
 換言すると、この『自霊拝』と『あじまりかん』の二つが、『日本神道』という一生命的元素の原子核にあたるものである。また、これが日本という一つの『いのち』の樹の『幹』にあたるともいえよう。(佐藤博士の語る「日本神道」とは、我々の知っている神社神道や伊勢神道、国家神道とは全く異なる神道である。そもそも神道とは8世紀に日本書紀が成立した際に、本来の日本人の信仰であるオリジナル神道を覆い隠すために人為的に作られた神道である。博士は無意識に「日本神道」という言葉を採用されているが、「日本」なる言葉が含まれる以上、その成立は日本(=大和)建国の時であると考えざるを得ない。斎藤の認識では、天皇神道の成立は初代天皇である応神天皇=神武天皇が即位した時である。詳細は拙著『アジマリカンの降臨』を参照されたい)
 すなわち、これまで日本神道が取り扱って来た国家神道や神社神道、また民間神道のすべては、『白雲拝』と『あじまりかん』の幹から生え出た枝であり、それらが幹ではなかった。
 これを近代科学の例でいえば、従来の民間に伝えられた神道は、水素、酸素、金、銀、銅、鉄などの元素を、ただその外形だけを認識していた古典科学的な智見にあたり、本論文で明示しようとする『自霊拝』と『あじまりかん』は、近代原子核科学の『プロトーン』(陽子)(原子核に喩えるならば、「陽子(プロトン)と中性子(ニュートロン)」とすべきであろう。だが、この比喩自体が昭和二十年代の原子核物理学の知識に基づいているため不適切である。この種の記述が「永続」・「無限」等の意味合いで行われていることを知っておく必要があると思われる)にあたる。
 すなわち、原子核内部の在り方が、元素の外形を決定する事実に似て、天皇の『自霊拝』と『あじまりかん』の『いのち』の在り方が、古来の神道の外形的表現を決定していたのである。
 だから、日本神道を理解しようとする者は、何としてもその根元である天皇の『自霊拝』と『あじまりかん』が何を意味しているのか。これを先ず学ぶ必要がある。この二つを知らずしては、未だ日本神道を知ったとはいわれない。
 これまでの著者は、長い年月のあいだ神道を学んだが、どうしても割り切れぬものが残った悩みの原因はここにあった。末葉だけを探って、その根幹の『いのち』を知らなかったからだ。
 そこで著者は、自分が陥入っていた長年の失敗経験から、世界の人々に申したい。初めて日本神道を学ばんとする欧米の諸君は、著者のとった道筋とは反対に、先ず第一に、天皇神道の本質的『いのち』である『白霊拝』と『あじまりかん』の二つを深く学び、かつ深くそれを修行して、その真髄をしっかりと把握して貰いたい。(傍線は筆者。この部分に関しては佐藤博士は完全に正しい。つまり、斎藤も同意見である。さらに、外国人だけでなく、日本人もそのようにすべきである)
 そうすると、天皇行の『いのち』の表現である国家神道、その他の神道は、水の高きより低きにつくように、おのづから解(わか)ってくるであろう。
 この在り方は丁度、私たち科学の学徒が欧米に留学した時に、第一に物理、化学、またその他の科学について、先ずその基礎理論を学び、次にその応用として、工業科学の実際を修習した。そうすると、いも早くかつ容易に科学と、その実際応用学の道を握り締め得る。それと同様に、今は欧米の求道者諸君は、東洋の光である日本神道の『いのち』について、その理論とその実際の道を、科学の筋道で学びなさることをおすすめする。

(二)西洋の考え方と東洋の考え方

 天皇行の秘伝を語ろうとする時に、著者が欧米の友に語りたいと思うことは、東西両洋の考え方が、互いに逆になっているということである。まずこのことを注意したい。
 欧米の学術は、先ずその原理法則を、公式によって簡明に表示し、ついでそれが原理であることを事実によって論証し、しかる後に、その原理の応用として、さまざまの新現象を推定誘導し、そこから新発見と新発明とを産み出すことを常則にしている。
 近代の科学文明は、こうした筋道によって産み出された。欧米の世界的貢献がこのところにある。筆者は一個の科学の学徒として、その生涯をこうした考え方のもとに、習熟させられてきたことに対し、深甚の感謝をもつ。
 ところが東洋の考え方を見ると、正(まさ)にそれとは百八十度の逆である。東洋では、何事か前人未踏の新発見をしたたらば、これを西洋のごとくに、花やかに発表しない。その根本となる原理は『秘伝』として少数者だけに伝える。ここに東西両洋の『行き方』に相違がある。
 それで、東洋文化の方では、幾千年にわたる訓練と熟達とが、遂に人間的な『わざ』を越えて、超人的な技能を発現する場合が数々産まれてくるが、その、Technicを一般公衆に、理路整然と学的に表示することが難かしいものが多い。
 科学的考え方に鋳込まれている欧米人にとって、東洋的な奥義が一つのMystics(秘儀・秘伝)として、なかなかに把握しにくい理由がこのところにある。
 日本芸術の絵画や茶道、また能楽などに、他に追従を許さぬ幽玄味を持つ理由がこのところにあり、またその真髄を把握するのに、数々の困難のある原因もこのところにある。
 日本神道の最奥の天皇行の真理が、今日まで厳秘にされていた理由もこのところにある。日本神道の幽玄さを産み出している源泉は天皇神道の奥義の中にあるのだから、どうしても、今度は欧米の諸君にも、この天皇行の神秘を、欧米的な科学する心で握り締めてもらいたいものである。

(三)自霊拝とは何か

 いよいよ天皇行の原理について語ることにしよう。『自霊拝』の意味は、これを一言に要約すると、「自己の『たましい』を一枚の明鏡に保つこと」である、といったらよかろうと思う。
 日本国民の人間観は、自己を国家から離れて単独に存在するものとは認めない。天の側に、一本の『いのち』の『もとつ木』がある。自分はその一本の枝である。
 その枝の使命は、天の幹に流れるいのちをうけて、幹が成らせようとする花と果を、自分の枝先に成らせること。これがただ一つの自己の存在使命である。
 聖書に、『われは葡萄の樹、汝らはその枝なり』(ヨハネ伝十五章四節)とある。その聖言の『枝』になることが、日本人存在の真意である。
 こうなると、その枝に天の幹の『いのち』の樹液が流れ込み。その枝の中には、いつでも神の霊が止っている。
 ゆえに、日本では人(ひと)というのは、神の『いのち』が止まっているという意で、これを『霊(ひ)止(と)』と書く。
 自我に死に切って、神の霊が内部に止まるものでなければ、『ひと』とはいわれない。
 こういう神の霊の止まっている者のことを、昔から日本では『真(ま)人(ひと)』と申している。それは世の中には自我心の強い『うそひと』すなわち『偽りの人間』も沢山いるから、それに対して、日本本来の心をもつ人のことを『真人』というのである。
 そうした真人のなす『わざ』のことを『まこと』という。『まこと』とは『誠』である。
 『誠』とは神の『言』が、わが身の上に『成』と書く。これを聖書的にいうと、『神の言が成っている人。すなわち神の言がその人の中にIncarnateしている人という意である。
 こうした神の『まこと』が身に成っている人のことを、『ま』が『み』に転じて、『みこと』という。『すめらみこと』とは、神の言がIncarnateしている人のことをいうのである。後世に日本に漢字が入って来て以来、『天の位格についている大』という意味で、『天皇』という字をあてることになった。
 天皇とは、すなわち神の言が肉体の中に、Incarnateしている真の『霊止』という意である。
 こうした『たましい』になると、それまで見えなかった桜の木の『いのち』が美しい花となって、枝先に朝日に匂い、輝き出るように、天地の中に盈(えい)満(まん)する神の霊が、その真人の中に、輝きわたってあらわれてくる。
 この在り方を他の言葉でいうと、丁度一枚の明鏡に天の明月が、さながらにうつり出ている『すがた』に似ている。それで『うつし身』と申すのである。
 鏡自らは、ただ冷い光のないものである。しかし、光がうつると、鏡は全く見えなくなり、そこに見えるものは、ただ天の明月だけである。
 こうした天の明月と地上の一枝の明鏡との関係に、『神』と『自分』を常に保っている行法のことを、『自霊拝の行法』という。また、そういう『人』のことを『自霊拝の行者』という。
 すなわち、「われ生くるにあらず、『天の父』すなわち、『キリスト』がわがうちに生き給う」という『たましい』の生活行者が、白霊拝の行者である。
 イエスは『われを見し者は、天父を見しなり』(ヨハネ伝十四章九節)(*)と自己を紹介しておられる。そのイエスの霊の在り方と同様の在り方に成っていることを、日本では『自霊拝の行者』と中しているのである。(これは根本的な誤りである。イエス=天父ではないので、論の立て方そのものがおかしい。また、イエスには「自霊拝」や「あじまりかん」の教えもないし該当する修業方法も存在しない。全くの間違いであると知るべきであろう)
 日本神道の奥義は、ヨハネ福音書中の十四章九節の『神のことば』の通りに、自分の『たましい』を保つ行法である。
 日本という国は、その行法を幾千年の昔から、天皇御自身が身をもって実践しておられた国であった。
 聖書の方では、イエスがその霊境に堅く立ち給うて、その行法の結果として、溢れ出る神の霊力の実際を、イスラエルの民の前に顕現し給い、そして活ける天父の実在を実証されたのであったが、その行法を誰人でも再現出来る道については、公開されなかった。
 イエスが誰人にも語らず、秘めておられた『たましい』の在り方と同じ内容の行法が、不思議にも日本の天皇行として、今日まで皇統連綿として、脈々わが日本に伝えられているのである。
 日本という国は、何という不思議な『くに』であろうか。弟子ヨハネは、『イエスは神の受肉者であった!』と、声高らかにキリスト・イエスを世に紹介したが、その『神の受肉者となる秘中の秘に属する極秘の行法が、日本にそれと同質と思われる秘法が伝えられていたのであった。
 聖書ヨハネ福音書は、日本自霊拝の『顕(けん)相(そう)』にあたり、日本天皇神道は、聖書ヨハネ伝の『いのち』の密相にあたる、といってよいと思う。『顕密一体の関係』が聖書と日本天皇神道の関係であった。何という神の『ひめごと』ではないか。(聖書と日本天皇神道は全く関係がない。また、その証拠もない。聖書の記述に依拠して天皇神道を論ずること自体が完全な誤りである。以降にも同様の論述が頻出するが、すべて佐藤博士の信念を述べているだけに過ぎない。それらの記述は事実とは関係ないのである)
 
 こうした自霊拝行法により、天の活ける父神の霊が、地上の一行者の心の中に宿ると、そこにヨハネ伝におけるイエスの宣言と同様に、その鏡を見たものは、天の父神の光を見たものになるであろう。そして、それまで見えなかった『神』のすがたを、まざまざとその『人』の中に見つめることが出来るわけだ。
 断じて空漠なる観念の神ではない。鏡の中に活ける神を現実に拝し、神と面接する道である。
 『神』と『人』とは、決して懸隔してはいない。幹と枝の在り方である。相互に一体化しているのが本義である。すなわち、神人一如が宇宙の実相である。これがイエスの宗教体験であり、また日本の自霊拝の体験である。
 これまでのキリスト教は、主としてパウロの足跡に追従したゆえに、その主体が贖罪愛の一事にしぼりとられている。
 こういう欧米のキリスト教は、その在り方をさらに今一つ奥へ突き進んで、聖ヨハネがその福音書に伝える同書十四章九節のイエス体験のクライマックスまで登ってくるのが、順当な筋道であると思う。
 このクライマックスの最高峰へと欧米のキリスト教を高揚させるものが、東洋の宗教、特に日本の自霊拝の天皇行であろう。
 この面から見ると、日本の存在使命は、ただ一つのことに尽きる。すなわち、上記の全人類にかかおる霊界の秘義を明確に証詞する一点にあるといえる。
 日本の国の存在使命と、キリスト教の存在使命とは、こうした密接不離の関係につながれていたことを、欧米の先覚者が、深く納得してくれることを望む。
 因に、この自霊拝の行法の実際については、言葉の表現を越えるから、日本に来朝して自らその行法を実際的に指導を受け、その奥義に参堂されるようにすすめる。
     ×      ×      ×
 なお一言しておきたいことは、日本で神を霊覚する方法は、物心一如の原理に立つゆえに、霊のことは『物』の形の在り方であらわされて、決して欧米のごとき観念や、概念を用いない。
 それで自霊拝の心の在り方も、これを伝えるのに、観念を用いず、器物の鏡をもって表示する。鏡を授けて、『この鏡を見ること、われを見るごとくせよ』とのべられておられるのである。
 『おのが心を一面の鏡に見立て、その鏡の中に神を宿らせ申す。自分の心の中に、活ける神がつねに輝いて拝されるように、心を保持しておれ!』という貴い神意の伝授である。
 今日もなおいたるところの神社に一面の明鏡が供えられてあるのは、この神意の表示であることがわかる。

* ヨハネ伝第十四章九節「わたしを見た者は、父を見たのである」という一節については、拙著『アジマリカンの降臨』の「第十三章 イエス・キリストとの対決」において、「誤りである」と批判した。だが、佐藤博士のヨハネ伝第十四章九節に関する解釈は全く正しい。つまり、適切なものである。
 斎藤の批判は、「肉の身のイエスを通して父なる神を見よ」というイエスの言葉に無理があるという判断から出たものである。ただし、イエスのこの言葉には情状酌量の余地もある。なぜならば、日本に秘められていた天皇行、すなわち、「自霊拝」と「あじまりかん」をイエスが自身の教えとして説く状況ではなかったからである。これは、神の経綸上、許されてはいなかったことなのであり、当時の人々はイエスを通じてしか神の存在を感じる方法が与えられていなかったのだとも考えられる。天皇行はイエスの死後、日本建国時に、アメノヒボコによって、日本に仕組まれることになっていたからである。
 天皇行が存在する国である日本は真の神の国であり、イエスも肉の身では行きたくても行けなかった場所なのである。キリスト教などの一神教は極めて不完全で非科学的な宗教である。なぜかと言えば、そこには観念の神しか存在しないからだ。ところが、天皇行が存在する日本には実体としての神(造化三神=根源神=最高神=宇宙創造神=実神)が縄文時代より一貫して降臨していたからである。そのことは、おいおい歴史的な事実として証明されるであろうというのが、斎藤の予言である。

参考:日本とはどんな国?:天皇行法(天皇神道)
   日本とはどんな国?:天皇行の核心

天皇行の神髄 完
 
 

 

 
 
 
 

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天皇行の核心

 
富士山・二月・伊勢原市郊外

日本とはどんな国?:天皇行の核心 /斎藤 敏一
作成:2018年1月7日、最終更新:2018年4月20日
 
●『日本とはどんな国』(佐藤定吉著)について
 
 佐藤定吉博士(1887-1960)の遺作『日本とはどんな国–秘められた人類救世の原理』は、私のあじまりかん関連著作において決定的な影響を及ぼした本である。
 何が決定的だったかと言えば、山蔭神道が「天皇行法」を伝承する古神道系の教派神道団体であり、別名「天皇神道」とも呼ばれていることを知ったからだ。
 「天皇行法」という名前については、故山蔭基央師の多くの著作のどれかで読んだことがあるかも知れない。だが、その意味も含めて理解したのは佐藤博士の前掲書を読み返したからこその出来事であった。
 天皇行法の実体が「自霊拝」と「あじまりかん」であることが初めて分かり、それらの行法に重大な意味「日本国家成立と存続に関わる根本的な存在価値」があることを初めて公開したのが『日本とはどんな国』だった。

 さて、以上を前置きとして、『日本とはどんな国』の本文を読んでいくことにしよう。同著の白眉とも言える内容は「第一編 聖書相応の国日本」の以下の章である。

 第四章 天皇行法(天皇神道)
☆第五章 天皇行の核心
 第六章 天皇行の神髄
 第七章 天皇行の『あじまりかん』

 以降、「第五章 天皇行の核心」の全文を掲載する。文中の茶色部分「例:(ヒンズー教・仏教の発祥元)」は、斎藤の補足説明である。

 天皇行の核心–『日本とはどんな国』第一編より
 

第五章 天皇行の核心

(一)本論文の生れた理由

 著者に二つの疑問があった。
 第一は「なぜに日本が世界の例外国として、幾千年の歴史を今日まで、常恒不変に保ち得ているのであろうか?」ということ。
 その第二は「日本国民である著者の心の奥深くに、なぜに君国のために一身を捧げつくすという燃ゆる血の叫びがあるのであろうか?」という疑問である。
 この二つの深刻な疑問が、青少年の頃から、『たましい』の底に往来し、これを解こうとしたが、齢古稀にいたるもなお解けないで、いつも求め続けていた。
 著者の学んだ欧米の科学、哲学、またキリスト教は、この問題を解くには、はなはだ不充分であったので、この問題への解決を求めて、約四十年前から、神道の考究に入ったのであった。しかし、これまでの智見では、どうしてもこのことを解くべき光にめぐり合わさなかった。
 ところが、敗戦という悲惨な事実を通じて、不思議にも天の聖手が動いて、肇国(ちょうこく)以来、ただ歴代の天皇だけが宮中で行ぜられ、誰一人知ることの出来なかった天皇行の秘法が、世に公開される道がついに開けて来た。
 かくて、その開かれた扉の内部に入ってみると、そこに二千六百年(実際には千八百年程度である)歴代の天皇を一つの管にして、今日まで滾々と清水の湧くに似て、霊の河流が日本国の中に流れ貫いていることが見えてきた。
 そこにあふれる高清水の試料を、イスラエルの民の中から湧き出ている天の霊流(ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の発祥元)の水と比較して見ると、不思議なほどに、両者の本質が一つものであることがわかって来た。またそれのみでない。印度のヒマラヤ山下から流れ出ている霊の高清水(ヒンズー教・仏教の発祥元)も、その本質は同一であることが論証されて来た。(佐藤博士は「ユダヤ教・イスラム教・キリスト教・ヒンズー教・仏教のいずれも、その本質が天皇神道と同一である」と語っている。佐藤博士の立論の方法は、外国の宗教を基準=物差しとして天皇神道を測ろうとするものだ。この方法は客観的であるように見えるが、間違っている。斎藤に言わせれば、「ユダヤ教・イスラム教・キリスト教・ヒンズー教・仏教のいずれも役不足であるから天皇神道が出てきた」ということになる。これらの宗教の力では、人類は永久に救われないからだ。一方、天皇神道は人類を永久に救う(全人類を神に変える)のである。この違いはどこから来るのか? 天皇神道「自霊拝とあじまりかん」というものがとどめの神=宇宙創造神の教え(人類最後の教え)だからである。過去のすべての宗教と天皇神道を比較してはならない。まして、過去の宗教を論拠として天皇神道を評価することはできない。なぜなら、過去の宗教は物差しとして短か過ぎて、天皇神道の基準にはなり得ないからだ。佐藤博士は天皇神道が宇宙創造神から出たという意味を経綸として正しく理解できていないのだ。その点が佐藤博士の限界である)
 それで著者は、「長年の二つの疑問がすっかり解けた!」と心の奥底からわかり、大きい法悦に入ったのであった。
 また本来『くに』の『いのち』として生え出ている日本国民にとっては、この国の『いのち』の本源である『天皇行』(*)につながれなければ、真実の日本国民としての貴い力が湧き出て来ないこともわかって来た。
 この真理は、著者一人だけのよろこびでなく、世界万人にも、一つの驚くべき重大な霊的光であると信ずるので、これを世界のすべての人々に告げ知らせたいのである。

*  佐藤博士は、「日本の歴史の中に『天皇行』という霊的修行大系が存在するがゆえに、日本は貴い国である」という認識を語っている。

(二)問題の中核は何か

 確かめたいと思う第一のことは、次のことであった。
 世界歴史を見ると、栄枯盛衰は世の常道に見える。バビロン、アッシリヤは興り、かつ滅び、またギリシヤとローマは興り、また滅び、一つとして幾千年を、一つの『いのち』で伸び行き、始めの小さな一粒の『さざれ石』が、巨巌になるような生成化育ぶりを示した国は世界に一つもない。
 日本国家の存在は、確かに一つの神秘である。丁度イエスの『いのち』の一粒が万倍して、今日もなお永遠に向って生成化育しているのに似て、日本の『くに』も、何ものかが主要原因となって、かくのごとくに。幾千年にわたり、生成化育させているのであろう。その国家の根本にかかわる原因をたしかめるところに、著者の念願があった。
 第二にたしかめたかった点は、私個人の血の中から叫びかけている『内的いのち』の疑問であった。
 というのは、私は幼い時から唯物個人主義の教育を受けたが、常に自分ほど自我心の強い打算的な人間はあるまいと自ら反省していた。
 それほどに、自己中心の私の中に、不思議なことには、丁度黒い木炭の中に光る純白のダイヤモンドの光に似て、一つの神秘な『いのち』の光(**)を絶えず内部に見ていた。

** これはまさに、人間生命の中核となっている神の分けみ霊=直霊(なおひ)から発する光を、佐藤博士が幼少時代より自覚していたことを意味している。

      ×      ×      ×
 青年の頃からキリスト教に帰依し、自らもイエスにしたがって、十字架を負う人になりたいと願うのだが、何としても他人のために生命を捨てるなどということは、ほとんど絶対に不可能であるほどの自我中心の人間であった。
 したがって、自分が進んで国のために死ねるというような考え方が、私の心からわき出ることは、絶対に考え得ない私であった。
 ところが、私の『たましい』の実際を深く深く掘り下げると、産みの母親のためには、死んでも仕えたいという熱情があるのと同様に、わが祖国日本に対して、同じ心が燃えたぎっている。
 これは、私の血の叫びであって、頭脳の声ではない。いかなるすべての論理をも越えた声である。
 しかし、それが極めて合理的な至上命令である。こうした不思議な力が、私の血の中を貫き通していることを私は見詰めた。
 科学を専攻した私は、原理と現象の相互関係を知悉しているので、それがどんなに超論理であっても、厳然たる事実の存在するところには、必らずその背後に、それに相応する永遠の宇宙原理が貫流していることを握りしめている。
 一方に科学によって、物質界の真理の在り方を確認すると同時に、他方に聖書によって、宇宙に一貫する神の聖霊発動の在り方を、信仰五十数年の血と涙の体験を通じて知悉している。
 学と聖書の光で照顧吟味するとき、どんな事象が、『神』より出で、どんな事項が、『人』より出たものであるのか。それを容易に識別することが出来るようになった。
 こうした長い生涯の体験によって、霊界と人類との交流状態を知り得た霊識の眼で、幾千年の日本歴史に一貫する『天皇行』の『いのち』の在り方を熟視するとき、そこに神自らの巨手の動きが日本の上に厳然と存することを否定することが出来ない。
 この発見は、科学と聖書の二つが一体となって共に保証してくれるものである。断じて私自身の偏見や、独断ではない。確かに一個の『学』の対称となりうる霊界の真理であることを、私は信じている。
 そうした客観的真理性(***)をもつものが、このところに述べんとする『天皇行』の本質である。

*** 佐藤博士は天皇行の客観的真理性について、「科学と聖書の二つが一体となって共に保証してくれる」と語る。しかし、斎藤が『日本とはどんな国』を読んで理解した限りでは、科学も聖書も天皇行の客観的真理性を保証しているとは認めがたかった。
 現在のところ、客観的真理性を保証するものとは、古神道理論(特に山蔭神道の一霊四魂論と大元霊に関する理論)と、二千年の天皇行実践経験より読み取られた再現性しか存在しない。現在の科学も聖書も、天皇行の本質を解明するには役不足であり、新たに「古神道の宇宙観・人間観に基づく神霊的科学大系」を構築する必要がある。この仕事「客観的真理性を保証」は、あじまりかん友の会が確立しようとしている「あじまりかんの科学」以外では実現不可能であると思われる。

参考:あじまりかんは科学だ!
   日本とはどんな国?:天皇行法(天皇神道)

天皇行の核心 完
 
 

 

 
 
 
 

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天皇行法(天皇神道)

富士山・東名高速SA
日本とはどんな国?:天皇行法(天皇神道)/斎藤 敏一
作成:2017年12月14日、最終更新:2018年5月5日
 
●『日本とはどんな国』(佐藤定吉著)について
 
 佐藤定吉博士(1887-1960)の遺作『日本とはどんな国–秘められた人類救世の原理』は、私のあじまりかん関連著作において決定的な影響を及ぼした本である。
 何が決定的だったかと言えば、山蔭神道が「天皇行法」を伝承する古神道系の教派神道団体であり、別名「天皇神道」とも呼ばれていることを知ったからだ。
 「天皇行法」という名前については、故山蔭基央師の多くの著作のどれかで読んだことがあるかも知れない。だが、その意味も含めて理解したのは佐藤博士の前掲書を読み返したからこその出来事であった。
 天皇行法の実体が「自霊拝」と「あじまりかん」であることが初めて分かり、それらの行法に重大な意味「日本国家成立と存続、全人類の救済に関わる根本的な存在価値」があることを初めて公開したのが『日本とはどんな国』だった。

図1:日本とはどんな国表紙
図1:日本とはどんな国表紙

 『日本とはどんな国』において佐藤博士は、天皇行法というものが存在することを日本に知らしめた。その功績は極めて大きいと言わねばならない。
 しかしながら一方では、同著は私にとっては極めて問題が多いと感じさせる著作であった。具体的には、以下のような大きな問題が存在する。

①キリスト教的な偏向
 天皇行法(「自霊拝」と「あじまりかん」)に関する解釈が、完全にキリスト教的な観点(信仰的側面と聖書学的な側面がある)で色付けされている。
 先ず、天皇行法をキリスト教で解釈すべきではない。なぜなら、天皇行法はキリスト教ではなく日本古来の神の道(本来の意味での神道)だからである。
 天皇行法を解析対象とする場合には、自分が実践して体得・体感した事柄のみを対象として、それらの事柄を科学的にどのように解釈するかという方法論が必要である。佐藤博士は化学(プラスチックの工業的開発)という分野で世界の第一人者であった。だから、核物理学などの科学的観点が存在している点に関しては私と同様であり、宗教一辺倒ではない点が評価できる。
 しかし、佐藤博士の解釈方法は完全にキリスト教の信仰と理論に立脚したものであり、その部分については無視するか、あるいは、キリスト教抜きで再解釈せざるを得ない。

②日本史の知識が古過ぎる
 私とは日本史、特に古代史の理解が全く異なる。佐藤博士の日本史の知識は、戦前の内容であり、神武紀元が2600年前ということになっており、全く受け入れられない。当然ながら、最近の考古学的な知見が反映された日本古代史ではなく、戦前の歴史教育の知識がそのまま登場する。佐藤博士の日本史解釈は、完全に最新の考古学的成果によって置き換えられなければならない。
 特に、「あじまりかん」と「自霊拝」が天皇行法として成立した年代については、戦前の歴史教育における神武紀元ではなく、「応神天皇=神武天皇」という関裕二史観に基づいて推定しなければならない。関裕二史観に従えば、天皇行法の成立時期は大和建国直前、すなわち、応神天皇即位の実年代であると考えられる西暦270年前後(±20年~±30年の誤差を含む)と考えなければならない。
 また、佐藤博士の天皇行法解釈においては、誰が応神天皇に天皇行法を授けたかという観点が抜け落ちている。架空の存在である天照大神が天皇行法の産みの親ではないのだ。
 生きた人間として歴史を歩んだ実在の人物・アメノヒボコ=住吉大神=武内宿禰こそが天皇行法の産みの親なのだ。また、アメノヒボコこそ、大物主神として三輪山に祀られている天皇霊なのである。アメノヒボコは天皇霊となった実在の人物であり、日本建国の主体となった存在=国祖=建国の父なのだ。そこをハッキリさせない限り、日本建国の意味も天皇行法の意味も明確にならないのである。
 拙著『アジマリカンの降臨』における天皇行法論においてはっきりさせたかったのは、日本建国と天皇行法がワンセットだったという事実である。天壌無窮の神勅や同床共殿の神勅は天照大神という架空の女神によって与えられたものではない。
 それらの神勅は日本建国時にアメノヒボコが太陽神より授かったものである。私の直観を裏付けるような物的証拠は全く存在しないのであるが、状況証拠は「アメノヒボコが日本建国の父であり、わが子である応神天皇に天皇行法を授けた」という驚くべき事情を物語っている。
 日本国の天壌無窮性(永遠に存続し繁栄すること)を謳う天壌無窮の神勅は、大元霊=造化三神=宇宙創造神の言霊としての「あじまりかん」の使用説明書となっているのである。斎藤が神=「あじまりかん」から教えられたこのような物語は、余りにも突拍子のないものと受け取られる可能性が高いものだが、やがて物的証拠が出てくることによって証明されるであろう。

③物理学の例題の使い方が不適切
 佐藤博士は神の国の永遠性を示すものとして、湯川秀樹博士の中間子理論を採用しているが、例題として不適切である。原子核を構成する陽子と中性子がパイ中間子を交換することで永遠なる世界を構成すると説くが、単純に間違っている(永遠であるかのように見える陽子や中性子の寿命も有限であることが分かっている)。

湯川秀樹博士中間子理論記念切手
図2:湯川秀樹博士中間子理論記念切手

 最近の物理学は、湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞した1949年よりも混迷の度合いを深め、病的な状況となっている(説明すると長くなるのでまたの機会に・・・)。よって、現行物理学は神の国の永遠性を喩えるための材料としてはさらに不適当である。佐藤博士が現役として働かれていた時代に最新だった中間子理論は現在でも有効だが、その理論を「神の国の永遠性」を説明する素材として使用する際の扱い方に問題があり、全く証明の役には立っていない。

④古神道(山蔭神道)理論の理解不足
 佐藤博士が天皇行法を知ったのは亡くなられるわずか三年前だったので無理もないことだが、古神道(山蔭神道)理論の理解が不足していた。せめて大元霊(造化三神)や一霊四魂について基本知識を得ておられたら、斎藤と同じ結論にまで到達できたと思われる。また、当時は山蔭基央師も若く一家を構えたばかりの頃であり、著名な著作群も存在していなかった。学ぶべき古神道の教材が不足していたので、仕方がなかったと言うしかない。


 佐藤定吉博士の遺作『日本とはどんな国』には、上記のような問題点があることをしっかり踏まえておかないと、大切な情報を見失ってしまいかねない危惧がある。
 さて、以上を前置きとして、『日本とはどんな国』の本文を読んでいくことにしよう。同著の白眉とも言える内容は「第一編 聖書相応の国日本」の以下の章である。

☆第四章 天皇行法(天皇神道)
 第五章 天皇行の核心
 第六章 天皇行の神髄
 第七章 天皇行の『あじまりかん』

 この記事のシリーズでは、第四章より順次『日本とはどんな国』の本文をそのまま掲載すると同時に、各章の気になる部分について解説やコメントを挿入する。実際のところ、『日本とはどんな国』の著作内で最も重要と思えるのが上記の四章分であり、残りは不要と思えるものだ。どうして残りは不要なのかと言えば、氏の文章は前述の問題点を大いに含んでいるため内容が正しく伝わらない恐れがあるからである。特にキリスト教や古代史認識に関連したバイアスがかかっており、素直に読めない(少なくとも斎藤は大いに引っかかった)からである。
 本項では、「第四章 天皇行法(天皇神道)」の全文を紹介する。

 天皇行法(天皇神道)
 

第四章 天皇行法(天皇神道)

(一)国家の中心核

 亭々と天を衙く大樹には、必ずその高さに比例して、それよりもさらに深く、さらにひろい根が用意されている。
 日本は三千年の樹齢に生きぬく一つの巨大な樹である。
 天皇はその幹である。その幹には、日本文化という枝が伸び、そこに美しい花が咲き匂っている。
 けれども、日本国家を生かしている根は、地下に深くひそんで人の目から隠され、ただ九重の奥深いところにのみ、『天皇行法』として、三千年の齢を『神』と一体に交流しつつ今日にいたっていた。
 この偉大な深い『いのちの根』があったればこそ、日本史上にもろもろの文化の花は咲き、その果実はみのったのであった。ところが、不思議に思うほどに、この『根』を、未だ曽つて民草の一人も見たものはなかった。
 『根』は一般に隠されているのだが、日本の『くに』の根も同様であった。
 大自然の在り方を知るもののすべてが、熟知するところは、『根』の生命力の方が、上部の外形の幹や枝葉の伸長よりも、より強大である時に、樹はよく成長する。けれども、このバランスが外れると、木は枯れて了う。
 ゆえに、これまで隠されていた『天皇行法』の根の中に躍動する天的生命力は、日本歴史の経過から見て、世の権力、武力、経済力、外国の侵略など、すべての力を合わせたよりも、より強大であったことがわかる。
 そうでなしに、二千六百年にわたる日本歴史(*)の史実は、生まれなかった筈である。

(*)「二千六百年にわたる日本歴史」とあるが、これは神武建国以来二千六百年経過したという、戦前の歴史観に基づく年数である。筆者は、初代天皇である神武と十五代天皇である応神は同一人物とする関裕二氏の古代史観を採用している。関裕二史観に従えば、この年数は訂正が必要である。応神の即位は一般に4世紀~5世紀頃とされるが、実際には3世紀後半と考えられる。よって、応神即位年より現在までの経過年数は約千七百五十年である。
 また、佐藤博士の日本古代史には「縄文の視点」が全く存在しない。文中の「この偉大な深い『いのちの根』」とは、一万五千年にわたる縄文時代のご先祖の営為を指し示していると再解釈すべきである。なぜならば、縄文人がそのまま弥生人となり、弥生人が現在の日本人となっており、その流れには一切断絶がないからだ。

 ところが、今日まで有形の史実については、多くの人々がこれに検討を加え、研究をつづけて来たが、その本源の『根』については、未だ誰人もこれを研究し、それを学術化したものはなかった。
 このたび、端なくも導かれて、この『根』について学び知ることを得、その『根』の智見をもって、これまでの日本学や国学研究のあとを見ると、丁度原子核が、鮮明になったのちに、昔の古典科学当時の考え方を見る心地がせられる。
         ×          ×          ×
 思うに、徳川時代、宜長などの復古神道の勃興によって、外来宗教混入のために、不純化されていた、日本神ながらの道が純粋化され、肇国当時の純度に近づいたかに見えたが、それは丁度、原子核科学でいうと、ウラニウム鉱を、その不純物から分離、精製して、純粋度を高めたという程度のもので、まだ原子核内の爆カエネルギーは、そのまま睡眠状態をつづけ、発動状態になっていない。つまり、一つの中間の選別工程が加えられたというに止まった。
 今回の『天皇行法』の光は、まさに日本国家生命の原子核内部の構造の在り方が、明白になったに相当する驚くべき事実であると思う。
 換言すれば、これまでの二千六百年の経過は、古典科学の準備期にあたると思う。現在と今後の日本国家こそ、日本本来の『いのち』に内包される真実の偉力を所定の道に発動させる原子核新時代に躍進する転換期を迎えているのだといってよい。
 それでは、それほどに偉大な「神の力」の秘庫である『天皇行法』とは、どんな内容のものであろうか。
 次にその梗概を語るであろう。

(二)扉の開かれるまでの筋道

 まず、『天皇行法』を知るにいたった筋道を語ろう。
 『天皇行法』は、皇祖天照大神の当初から伝えられ。初代天皇以来歴代の天皇が、身をもって御親裁遊ばされた秘法である。『すめらみこと』(天皇)とは、この行法を身をもって修正し、その行法の『いのち』が、御身の中にIncarnate(化身・受肉)なされた御方をいうのであった。
 すなわち、天皇の御資格は、この行法の修行完了にある。この行法修行によって、天皇の位格が定まった。それほどに重大かつ神秘のものであるから、これを厳秘中の厳秘として保有されたものであろう。
 ところが、応神天皇の時代にいたり、内外多端のため、天皇御親裁ではことを欠くことが多く、側近のうちより霊能ゆたかな臣下を選んで、その行法を司(つかさ)どらしめ、研鑚を積ましめた。
 その司の家筋が、当時から今日まで約一千六百年にわたって存続し、七十九代相続している。この家筋の人々は、天皇の背後にあって、専心その道を修行し。たえず天皇に奉仕し奉った。
 天皇の蔭に侍して、奉行申し上げるから、その『天皇行法』のことを、別名では『天皇神道』または『山蔭神道』と称している。
 『山』とは天皇の御事、『蔭』とは、その背後に侍ることである。長年にわたる研鑚の記録は、これを禁書秘録と称して、天皇とその司の外には、誰人も見ることが厳禁されて、今日にいたっている。
 しかるに、日本の国家にとっても、ついにこれを世界に公表すべき『天の時』が到来し、日本の有史以来、民草も始めてこれを知ることができるようになった。
こうした特別な神の巨手の動きは、不思議にも、今次大戦による敗戦を一つの天機として扉は開けて来たのである。
 全くこの一事は、日本にとって、『復古の主』を仰ぎ見たイエスの弟子たちのよろこびに似たものがある。
 この天皇秘録の公開と共に、期待される『日本魂』の復活(**)は、確かにイエス・キリストの復活のような一新紀元を日本国家に画するものになることが信じられる。
 新日本は、いま誕生しつつある。
 この新誕生をさせてくれたものが、誰あろう。日本開闢以来、始めての『敗戦』という未曽有の苦難であったことは、全く人の思いを越えた神の奇蹟的な聖手のわざとしか考えられぬ。神の摂理を感謝したい。

(**) 佐藤博士の著作によって果たして『大和魂』の復活が成ったかかどうかであるが、これは一つの予言として捉えるべきであろう。
 真の大和魂の復活は、私達の「あじまりかん運動」にかかっているのではなかろうか。博士が把握し得た天皇行法の真義と新日本の息吹を斎藤が引き継いだからこそ、「あじまりかん」の本質が正しく理解され、今やぞくぞくと「あじまりかん行者」が誕生しつつある。「あじまりかん行者こそ真の大和魂の体現者である」というのが、斎藤の見解である。

         ×          ×          ×
 次に、筆者がこの天皇行法を知るにいたった筋道を一言語っておきたい。
 昭和三〇年九月から昭和三二年六月まで米国に第七回目の講演旅行をなし、帰朝後、同年八月に帰朝報告の講演をなした。その時、上記山蔭神道の当主(故山蔭基央師)に面会し、同氏は次のように希望された。
 『自分の家筋は、山蔭神道と申して、応神天皇以来今日まで、『天皇行法』を司どり、天皇御自らが行ぜられる神道の秘法をお預かりしている家柄である。自分は若くしてその家を嗣ぎ、その任務を果したいと、日夜努力しているが、敗戦後の日本は、どうしてもこれを日本だけでなく、国際的にも紹介したい。
 ついては、今までのような国学者では、その目的を達しかねる。何としても、欧米文化の中心力である科学と、さらにキリスト教に通暁されている人の援助を必要とする。あなたが、その人であることを信ずるから、この日的のために協力して欲しい』ということであった。
 もとより著者自らにも、そのことを多年求めていたことであるから、微力その大任につき得ないことを恐れながら、とにかく全力を尽して御協力中上げることを応答した。
 その時から今日まで、まだ僅かに満二ヶ年の短かい歳月であるから、その詳細については承知し得ないことが数々あるが。その骨子については、略々(ほぼ)握り締め得たかに思う。
 本著にある『天皇行法』のことは、その家筋に伝えられた天皇神道の記録と、その伝統の行法に基づき、著者がその後継者から直接に学んだ内容を主体となし、その上に著者自らが、生涯を通じて体得体信し、白分の血と肉になっているキリストの福音信仰と、また他方に著者専攻の見地から見た体験と智見を加えて、著者の心と頭脳に『これならなるほど真理だ。欧米人のどんな学者がこれを学んでも、そこには一つの疑問も起らないであろう』と思われるように、筋道を正して、天皇神道の真髄だとうけとられるところに、近代的な註釈を施したものである。
 ゆえに、もしそこに何らかのあやまちがあったとするならば、それは著者の学識と体験の未熟によるもので、責任は筆者にある。これを取りついでくれた山蔭神道にはない。この一事をあらかじめ特筆しておきたい。
 さらに一言を加えておきたいことは、山蔭神道の伝える主体は『行法』であって、決してこれまでわれらが西洋キリスト教や科学や哲学を学んだ時のような智的理解ではない(***)ということである。

(***) 確かに山蔭神道は天皇行法としての「自霊拝」や「あじまりかん」を修行として人々に伝えている。だが、山蔭神道の前管長である故山蔭基央師は数々の古神道関連著作を世に問われた方でもある。筆者などは40年前(学生時代)から山蔭師の著作群を通じて山蔭神道理論に親しんでいた。
 「西洋キリスト教や科学や哲学を学んだ時のような知的理解ではない」というのは正しくない。古神道の哲理、特に大元霊と一霊四魂に代表される古神道霊学は非常に科学的であり、過去の修行者が認識し得た宇宙観や人間観を雄弁に物語っている。古神道の先人たちが蓄積した霊学は「霊的科学」とでも言うべきものであり、神と人間を理解するための必須理論である。特に山蔭神道に蓄積された伝承群は極めて優れたものであり、学ぶべきものが多いということを強調したい。
 古神道の霊学については、故山蔭基央師の『神道の神秘』に簡潔に紹介されているので、ご興味のある方は是非とも参照されたい。

 その中心的主体となる『行法』は、『霊知り(ひじり)』の領域の中にあるので、イエスが、『神は霊なれば、拝するものも、「霊とまこと」をもて拝すべし』(ヨハネ伝第四章の二十四)と喝破されているように、『霊のまこと』のみをもって霊解すべきものである。ゆえに、キリスト教信仰だけが主体になっている著者には、その奥義の真諦のすべてをことごとく悟得しうる筈はない。
 僅かに大海の一滴を味わった程度であろうことは、よく自ら承知している。
 そして五十数年の聖書信仰の体得と、科学研究という眼鏡を通じて見た一智見に過ぎないので、この点は後世に批判されることが、必ずありうると思うが、著者は、その批判を甘んじて、受けたいと思っている。現在の著者には、この一事以外になすところを知らない。これがただ一つのささげうる奉仕のすべてであるからである。
 これによって、これまで神秘の幕の彼方に深くとざされていた日本国家の秘義の真相(天皇行法の実態である。天皇行法そのものが日本国家の中心核であると喝破した佐藤博士は優れて霊的感受性が豊かな方であった)を、幾分でも世界に紹介し、今後の完成者のために、靴の紐の一端を解くことでもゆるされるならば、著者が今日まで、日本人として存在させられた目的に叶うことが出来るので、それを無上の光栄に思うのである。
 以上、後章の『天皇行法論』を綴るにあたり、後世の誤解のないように、書き添えておく。  

天皇行法(天皇神道)  完