霊的観点:「あじまりかん」と「自霊拝」/斎藤 敏一
作成:2018年4月6日、最終更新日:2018年4月9日
『あじまりかん通信第3号』の「あじまりかんの渦、第3章 あじまりかんの渦が働く仕組(1)」より、 自霊拝の意味について紹介したい。
ついに私なりに自霊拝の意味を把握できたと思えるような体験があったからである。
◆ようやく分かった自霊拝の意味――「あじまりかん」の結果を検証する
最近、自霊拝の意味と役割がハッキリと見えてきた。
「天皇行法は『自霊拝』と『あじまりかん』の二種類の行法から成り立っている」
これは、佐藤定吉博士の『日本とはどんな国』に書かれていたことだが、どうして二種類の行法が存在するのか、今一つ明確になっていなかった。
だが、筆者の自霊拝実践時の最近の体験を通じて、これらの修行の役割と関係が明確になった。
昨年(2017年)末の「あじまりかん講座」において、「自霊拝」についての質問があったので、メールマガジンで自霊拝の意味ややり方を説明した。「自霊拝」と「あじまりかん」は全く異なる行法なので、各行法の特徴を理解して「合わせ技」として実践すると、相乗効果で著しい霊性開発が期待できる。
先ず、メールマガジン「あじまりかんと自霊拝」の内容を再掲しよう。
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①自霊拝の意味とやり方について
神社にお参りすると、拝殿の前や正面に鏡が掲げられている。凸面鏡になっており、よく磨かれた鏡面には自分の姿が小さく映る。私の家の仕事部屋には神棚があるが、その神棚の正面にも小さな鏡があり、真正面から鏡をよく見ると自分が映っていることが分かる。だが、凸面鏡なので映っている自分の姿はあまりにも小さく、ここで語る自霊拝という目的にはかなわない。
この鏡は、起源としては日本書紀の天孫降臨の段に登場する同床共殿(どうしょうきょうでん)の神勅に出てくる八咫鏡(やたのかがみ)(三種の神器の一つ)がモデルとなっている。
【同床共殿(宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい))の神勅】
読み下し文:吾(わ)が児(こ)、此の宝(たからの)鏡(かがみ)を視(み)まさむこと、当(まさ)に吾(あれ)を視るがごとくすべし。与(とも)に床(ゆか)を同くし殿(おおとの)を共(ひとつ)にして、斎(いわひの)鏡(かがみ)となすべし。
大意 :この宝鏡(八咫鏡)を見る際は、まさに私を見るような気持ちで見なさい。いつも宝鏡と同じ部屋で起居し、祀りを続けていきなさい。
この八咫鏡は本来、天皇の生活空間に常時かけておくためのものだ。ところが、現在は伊勢神宮に秘匿され天皇すら拝することができないという異常な状態になっている。人は「畏れ多い」と言うが、ただの鏡である。ちっとも畏れる必要はない。そういうおかしな八咫鏡のことはひとまず忘れよう。
実際に我々が自霊拝という行為(修行)を行う場合には、壁に掛かった普通の姿見や洗面所の鏡を使う。両手で合掌する必要があるので、手鏡は駄目である。少なくとも上半身(頭とバスト)が映る鏡が望ましい。
同床共殿の神勅の主旨は、「鏡に映った自分の姿を神として拝みなさい」ということだ。非常に単純だが、それだけに難しい修行である。自霊拝という言葉の意味は、「自分の霊を拝む」ということだが、この霊とは直霊(なおひ)(直日霊)のことだ。つまり自霊拝とは、神から直(じか)に分かれた自分の霊を拝むということに尽きる。こういう素晴らしい教えが日本神話には秘められているのだ。
このように自霊拝は単純明快な修行だが、それだけに非常に厳しい修行であるという言い方もできる。なぜかと言えば、通常は鏡に映った自分の姿を神であるとは思えないからだ。鏡にはいつもの自分が映っているだけなのに、それを神さまと思うなどという芸当は普通なかなかできるものではない。いきおい、真剣にならざるを得ないわけだ。
あじまりかん講座の当日、参加者から「自霊拝を実践してますか?」という質問を受けた。私は、毎日自霊拝を忘れずに実践しているので、「はい、やっていますよ」と答えた。
さらに、「正しいやり方とかはありますか?」と聞かれた。私の回答は「自分を必死の覚悟で拝み倒すことだ」というものであった。実際、最初の頃はかなり気合いを入れて拝んでいた(今はそうでもない)。拝みながら「神さまありがとうございます。ご苦労さまです」と挨拶する。それにかかる時間は十数秒というところだろうか、あっという間に終わってしまう。
必ずしも私のようにやる必要はないが、「自霊拝を真剣にやればやっただけのことはある」というのが私の見解だ。一種の心構えが必要なので、自霊拝を始める時は少し抵抗を感じることがある。そこを乗り越えれば、後は習慣になるので楽にできるようになる。
最初だけはあじまりかんを唱えるよりも難しいかも知れない。だが、実際にやってみると効果は非常に大きい。何よりも良いのは、自分が好きになり、「私は貴い神である」という自覚が深まることだ。
②自霊拝とあじまりかんとの関係
自霊拝とあじまりかんは全く異なる修行なので、車の両輪のような関係になる。あじまりかんで神の顕現・降臨を受けて、自霊拝で顕現・降臨した神(自分の姿として顕現している)を拝むという関係である。
修行の目的や方法が異なるので、どっちがどうだという比較はあまり意味がない。また、どっちを先にやるのかということも明確には決められない。私の場合は、先に「あじまりかん」、次に「自霊拝」であった。しかし、これは結果論であり、決まり事ではない。
大切なのは、「自霊拝」にしても「あじまりかん」にしても、その意味をよく理解して実践することだ。どちらも素晴らしい行法なので、毎日続けることであなたの神性が日に日に開発されるだろう。また、貴方の人相も日増しに良くなってゆくことだろう。
◆自霊拝では誰にでも「あっ、神さまだ!」体験が起きる!
この自霊拝を私自身が約半年の間真剣に行じたところ、最近になって、鏡に映った自分を本当に神と思えるようになったのだ。時折、白光に包まれた神々しい自分の姿を拝むことができるようになったのだ。
自霊拝を始めた頃は、鏡の中の自分を無理やり「神さまだ」として拝んでいた。かなり気合いを入れていたのだ。だが、最近はそういうことはなくなり、鏡に映った自分の姿を見て、ごく自然に「神さまがいる」と思えるようになったのである。
「あれ、これはどうしたことだろう? いつの間にか神さまになっちゃった」という感覚である。この「神さまになっちゃった」という感覚が重要である。この体験に自分自身が驚いたのであるが、驚くと同時に自霊拝の意味が分かったのだ。
この時の感覚を「あっ、神さまだ!」体験とでも名付けよう。
この体験は私だけのものではなく、「あじまりかんと自霊拝」を実践する誰にでも起こることだ。誰でも鏡に映った自分の姿を見て、「あっ、神さまだ!」と思う時が来るのである。既に私と同様の体験をされている方もおられるに違いない(報告を待っています)。
鏡は嘘をつかない。そのままの自分を映し出すからだ。そのままの自分がいつの間にか神さまになってしまったことが分かったのだ。これは来る日も来る日も「あじまりかん」を唱えた結果である。
「なるほどそういうことだったのか。自霊拝で現在の自分の状態が分かるのだ」
「『あじまりかん』を唱えると神になる」ということを、私は自著の中で繰り返し語ってきたのだが、この体験をするまでは一つの疑問が残っていた。最後の疑問と言ってもよい。
それは、「あじまりかん行者が本当に神になったかどうかをどうやって知るのだろうか?」という疑問である。
その疑問に対する回答がようやく、図らずして与えられた。自霊拝こそが自身の「神さまへの到達度」を測る行法だったのだ。
だから、天皇行法は「自霊拝」と「あじまりかん」がセットになっていたのだ。
自霊拝を行えば、鏡に映った自分の姿を見ることで、自然に自分が神さまになったことが体験的に分かる。「あじまりかん」を唱えている自身を日々点検することが可能になるのだ。
もちろん「神さま」になったから「あじまりかん」を唱えなくてもよいということではない。自霊拝で「あじまりかん」修行の到達度「神が自分の中に留まっているかどうか」をチェックできるということが重要なのである。
ここに至って、「天皇行法というシステムの完成度が極めて高い」ことが証明されたのだ。天皇行法には到達度チェックの仕組が最初から備わっていたのである。
信じられないぐらい良くできたシステムではないか!
本章(前半)の結論としては、次のように整理できる。
・「あじまりかん」とは神の渦巻きエネルギーの波動で、唱えた人に神が留まる。
・「自霊拝」によって、行者がどの程度の段階に至ったかどうかを測ることができる。
霊性開発のためには、天皇行法「自霊拝とあじまりかん」一本でよいのだ。それさえ継続してゆけば、誰でも神になれるし、神になったことが分かるのである。
筆者は最近の自霊拝時の「あっ、神さまだ!」体験によって、改めて「自霊拝とあじまりかん」を続けていこうと思ったのである。
【参考資料】
・日本とはどんな国?:天皇行法(天皇神道)
・日本とはどんな国?:天皇行の核心
・日本とはどんな国?:天皇行の神髄
・日本とはどんな国?:天皇行の『あじまりかん』